2025年10月

【長編連載小説】 『こころの座標』 (23)7章 曼荼羅の外へ―⑦

【長編連載小説】 『こころの座標』 (23)7章 曼荼羅の外へ―⑦

 曼荼羅の内部での長い時間が、ようやく終わりを告げた。堂の扉が静かに軋み、外の光が差し込んだ瞬間、デカルトは目を細めた。淡い霧を含んだ山の空気が、頬を撫でて通り過ぎていく。その感触は、まるで長い夢の外に戻ってきたことを告げる手触りのようだった。
 彼は思わず深呼吸をした。澄んだ風が肺に満ち、胸の奥に広がっていく。堂内で幾重にも重なった色と音の渦に包まれていた後の空気は、まるで別世界の息吹であった。
それは「外」ではなく、「新しい内」――心の奥深くまで通う風のように感じられた。
 石段を降りると、朝露を帯びた苔が金緑に光っていた。足元の岩の隙間を、細い流れが音もなく走っている。
 その水は透明で、岩肌を撫でながら、小さな葉を抱き、やがて渦をつくっては静かにほどけていった。
 デカルトは立ち止まり、その繊細な動きを見つめた。
 ──曼荼羅の図に似ている。

【長編連載小説】 『こころの座標』 (22) 第7章 中心なき中心—⑥

【長編連載小説】 『こころの座標』 (22) 第7章 中心なき中心—⑥

 曼荼羅の迷宮を歩むうち、デカルトの視線は次第に一点に吸い寄せられていった。
 堂の内部は単なる建築ではなく、呼吸する宇宙であった。光は線ではなく粒となって漂い、時に花弁のように旋回し、時に炎の舌のように立ち上る。
 壁も天井も床も境を失い、色彩は液体のようにたゆたい、触れると指先に温度を残した。
 朱は体温を上げ、群青は額の熱を奪い、黄金は胸腔の奥に低い鐘の音を共鳴させ、翡翠は草いきれの記憶を運ぶ。
 沈香と塗りの匂いは形を帯び、耳には聞こえないはずの梵音が、脈拍と同じ速さで押し寄せては退いた。
 それほどの渦中にあっても、彼の心はなお「中心」を求めた。
 これまでの哲学は拠り所を探す営為だった。すべてを疑い、解体し尽くした末に残った「我思う、ゆえに我あり」。
 それは荒天の海から船を護る錨であり、霧の高台に掲げる標識であった。
 だが曼荼羅の只中では、その錨が砂に沈む。結び目がほどけ、綱がたわみ、確かだと信じた重みが指の間から零れていく。

【長編連載小説】 『こころの座標』 (3) 第1章 荒廃した村の影—②

【長編連載小説】 『こころの座標』 外伝:失われた時間の旅(3) 第1章 荒廃した村の影—②

霧の幕を抜けると、地形がわずかにひらけた。かつて畑であったと思われる土地が広がっている。しかし土はひび割れ、草は茶色に枯れ、ところどころに残る石垣だけが耕作の名残を示していた。
 デカルトは歩を止めた。前方に小さな屋根が見える。低く傾いた家が数軒、寄り添うように建っている。煙突からは細い煙が上がっていたが、焚かれているのは薪ではなく、湿った藁か枯れ枝のようで、煙は重たく鼻を刺した。

【長編連載小説】 『こころの座標』 (21) 第7章 音と沈黙の曼荼羅—⑤

【長編連載小説】 『こころの座標』 (21) 第7章 音と沈黙の曼荼羅—⑤

すべてが鳴り、そして、すべてが静まる。
世界はまるで、大いなる呼吸のように――
音と沈黙を交互に織りなしながら、曼荼羅を紡いでいく。
空海は、沈黙のなかに潜む“響き”を語る。
それは、言葉にならない願い。
それは、語られなかった祈り。
デカルトは、はじめて“沈黙そのもの”を思考する。
理性では届かない深みの底で、ただ音もなく何かが震えているのを感じながら。
曼荼羅は、響きと無音のあわいで広がり続ける。
そこに浮かぶのは、宇宙の心臓の鼓動、そして、ふたりの魂が重なりゆく最後の座標。

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (2) 第1章 孤独の荒野—①

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (2) 第1章 孤独の荒野—①

 山の石段を下りきったとき、空気の質が変わった。そこには、音を吸い込み、匂いさえも曖昧にするような霧が漂っていた。
月は背後の峰に隠れ星々も霧の膜に覆われて、光はほとんど地上に届かない。
 デカルトは|外套《がいとう》の襟を立て、歩を進めた。足元の土は湿り、時折、靴底に小石が擦れる乾いた音がする。それ以外の音はなかった。
 夜の森には、通常なら鳥や獣の気配があるはずだ。
だがここでは、それらの生命のざわめきがことごとく霧に呑み込まれている。