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(1)血に染まる大地
最初に届いたのは、音ではなかった。
匂いだった。鉄が湿った空気に溶け、血の生臭さが土の匂いと絡み合い、そこへ焦げた木の残り香が重なっている。戦が終わったはずの場所が、まだ終わりきっていないことを、匂いだけが雄弁に語っていた。
デカルトは歩みを止め、息を浅く吸った。肺の内側がざらつく。風に乗った灰が喉の奥へ貼りつくようだった。遠くで旗布がはためく音がする。だがそれは勝利の鼓舞ではなく、空虚な布の擦過音にすぎない。音はあるのに、生がない。そういう感触があった。
視界の先で、大地が黒く染まっていた。草は踏み荒らされ、ぬかるんだ土には無数の足跡と轍が刻まれている。折れた槍、欠けた盾、裂けた旗。金属が泥に埋もれ、布は血と雨で重く垂れ下がっている。戦場には、秩序が崩れた後の“配置”だけが残っていた。まるで世界が、暴力によって一度分解され、元に戻ることを拒んでいるかのようだった。
「……ここは、理性が役に立たぬ場所だな」
誰に言うでもなく呟くと、言葉は霧気の中でほどけ、すぐに消えた。戦場は言葉を受け取らない。言葉が意味を持つ前提――人が聞き、理解し、返事をするという前提――そのものが破壊されている。
デカルトは歩き出した。足裏が泥に沈み、引き抜くたびに鈍い音がする。靴底にまとわりつく重みは、ただの土ではない。見えない時間が粘土のように絡みつく感触だった。彼は何度も戦場を見てきた。だが、見るたびに同じにはならない。惨禍は繰り返されるのに、慣れだけは成立しない。そこに理性の限界がある気がした。
最初に見えたのは、一人の兵士だった。仰向けに倒れ、兜は外れ、目は開いたまま空を見つめている。瞳の奥には恐怖も怒りも残っていない。ただ、“問いかける途中で止まってしまった”ような空白があった。
デカルトは膝を折り、兵士の顔を覗き込む。頬は冷たく、唇は乾き、血が黒く固まっている。彼はそっと指を伸ばし、まぶたを閉じようとして止めた。閉じれば、終わったことにしてしまう。閉じないままなら、終わっていない問いが残る。
「……君は、何を信じてここに立った?」
返事はない。だが問いは自分の胸に戻ってきた。国家か、神か、命令か、恐怖か。理性は原因を列挙できる。だが列挙された原因は、目の前の冷えた肉体を説明するには軽すぎた。説明は、重みを救わない。
少し離れた場所で、呻き声がした。
まだ生きている者がいる。
倒木の陰に、若い兵士が横たわっていた。腹部を押さえ、指の間から血が滲んでいる。呼吸は浅く、時折、喉の奥で空気が引っかかる音がした。雨に濡れた髪が額に張りつき、唇は紫に近い色をしている。だが、目だけはしっかりとこちらを捉えていた。
デカルトは駆け寄り、外套を脱いで傷口を押さえた。布は瞬く間に温い血を吸い、重くなる。彼は歯を食いしばりながら圧をかけた。
「動くな。血が流れすぎている」
兵士はかすかに笑った。希望の笑みではない。諦めが、皮膚の下から滲み出たような笑みだった。
「……助かりますか」
その問いは、あまりにも率直だった。
理性は即座に計算を始める。出血量、脈の弱さ、医療の欠如、時間。結論は残酷なほど明確だ。だが、その結論を言葉にした瞬間、彼の中で何かが壊れる気がした。
「……私は、医師ではない」
兵士はそれを聞いても驚かなかった。むしろ安堵したように、ゆっくりと目を閉じかけ、また開いた。
「……なら……一つだけ……」
かすれる声が、泥の匂いの中に溶けていく。デカルトは身を寄せ、耳を近づけた。
「……なぜ……人は……殺し合うんですか……」
問いは、槍の先より鋭く、鎧の隙間より深く、デカルトの胸に入り込んだ。彼は答えを持っているはずだった。哲学者は答えを用意する者だ。理性は原因を提示し、論理は体系を組み上げる。だが、この兵士の問いは、原因や体系をすり抜けて“意味”そのものを要求していた。
「……私は、まだ答えを持っていない」
兵士は目を閉じたまま、微かに頷いた。
「……それで……いい……」
その直後、呼吸が止まった。胸の上下が止まり、口元が静かに緩んだ。死が訪れたというより、問いが途切れたように見えた。
デカルトはしばらく動けなかった。血に染まった外套を握りしめ、立ち尽くした。風が吹き、布が微かに揺れる。どこかで鉄が鳴った。戦場はまだ終わっていない。死者の数で終わるのではなく、問いが解かれない限り終わらない。
彼はゆっくりと立ち上がり、視線を遠くへ投げた。焼けた家々が見える。煙が薄く漂い、地平線は曖昧だった。遠くの空は青いのに、地面は黒い。上と下の対立が、まるで世界の裂け目のように思えた。
そのとき、別の音が耳に触れた。
足音。
人の足音だった。
彼は振り返る。だが誰もいない。
足音だけが、確かに近づいてくる。
足音は、霧の中で止まった。
そこに人影が立っていた。黒衣をまとい、頭部は影に隠れ、輪郭だけが戦場の煤と同化している。現実の人間なら、ここまで静かに立つことはできない。だが、その影は立っていた。まるで、戦場が生み落とした“思考”が形を持ったように。
デカルトは息を呑んだ。
その立ち姿に、覚えがあった。
――師。
いや、師の面影。
彼はそれを“幻影”だと理解した。理解してなお、足が止まる。理解してなお、背筋に冷たいものが走る。理性が「幻だ」と告げても、心の深層が「答えが来た」と告げていた。
「……あなたは」
口にした瞬間、影はゆっくりと顔を上げた。
顔は明確ではない。だが、そこに厳しさだけがはっきりとあった。温度のない視線。躊躇を許さない眼差し。
影が言った。
声ではない。だが確かに“言葉”として胸に届く。
――それでも、考えよ。
――ここで思考をやめるな。
デカルトは唇を噛んだ。怒りが湧いたのか、悲しみが湧いたのか、自分でも分からなかった。
「考えよ……? この場で何を考えろと言うのです。
私は、いま一人の命が消えるのを見ました。
問いを残して死んでいった。
考えることで、彼は救われるのですか」
影は動かない。
沈黙が、答えの代わりに押し寄せる。
デカルトは続けた。
「理性は、世界を理解するためにある。
しかし、理解してしまったからこそ、私は動けない。
原因を語ることが、ここで何の意味を持つのですか」
影は、ほんのわずかに首を傾げた。
その仕草だけが、逆に残酷だった。まるで、幼い子の誤りを見つめる教師のように。
――意味を求めるな。構造を見よ。
――意味は、構造の上にしか立たぬ。
デカルトの胸が締めつけられた。
構造。原因。必然。
それは、彼が最も得意とする領域だった。だが、その領域に兵士の問いは収まらない。
「……構造を見れば、救いが生まれるのですか」
影は静かに、否とも是とも言わぬまま、戦場の方角を指した。
視線の先に、まだ動く影がある。
生き残った者たちが、負傷者を引きずり、死体を避け、黙って歩いている。誰も泣き叫ばない。ただ淡々と、終わった戦を片づける。
その淡々とした動きが、デカルトには恐ろしく見えた。
人は惨禍に慣れてしまうのか。
慣れとは、生き延びるための仕組みか。
それとも、魂が削れていく過程か。
影が胸に響かせた。
――お前が見ているのは死ではない。
――“習慣”だ。
――人が悪を日常に変える、その機構だ。
デカルトの指が震えた。
この影は、彼に慰めを与えるために現れたのではない。
むしろ、逃げ場を塞ぐために現れたのだ。
デカルトは目を閉じた。
耳の奥で、兵士の問いがまだ鳴っている。
――なぜ、人は殺し合うのか。
彼は答えを作ろうとした。
国家、宗教、利益、恐怖。
だがその言葉は、戦場の匂いの前で力を失う。
ここでは、言葉は薄い布のように裂ける。裂けた布の向こうに、むき出しの現実がある。
影が囁いた。
――お前が答えを持たぬのは当然だ。
――答えは“言葉”ではない。
――お前自身の歩みが、答えになる。
「私の……歩み?」
問い返した瞬間、影は一歩、近づいた。
その距離の詰まり方が、物理ではなく心理であることを、デカルトは理解した。影は外側に立っているのではない。彼の内側に入り込んでいる。
――お前は世界を疑う。
――ならば、まず“疑う者”を疑え。
――お前は何のために考えるのか。
――考えることで、誰を、何を、救いたいのか。
デカルトの喉が詰まった。
救いたい――その言葉が、自分の中にあったことに驚いた。
彼は哲学を、真理を、確実性を求めてきた。救いを求めたわけではない、と言い切れると思っていた。だが戦場の前では、その誇りは薄い紙のように破れる。
「私は……」
言葉が続かない。
胸の奥から湧き上がるのは、理性の誇りではなく、無力感だった。
兵士の死を前に、何もできなかった。
その無力感の底に、微かな怒りがあった。
世界に対する怒り。
神に対する怒り。
そして、自分自身に対する怒り。
影はその感情を見透かしたように、静かに告げた。
――怒りは、問いの燃料だ。
――だが燃料だけでは道を照らせぬ。
――お前は燃やすだけで満足するのか。
――それとも、光に変えるのか。
その言葉が落ちた瞬間、風が強く吹いた。
霧が裂け、戦場の輪郭が鮮明になる。
死体の並び、壊れた武器、血の跡。
すべてが、恐ろしく“明瞭”になった。
デカルトは気づく。
明瞭さは救いではない。
明瞭さは、逃げ場を奪う。
影がゆっくりと後退した。
同時に、デカルトの胸の内からも何かが引いていく感覚があった。
影は最後に、ひとつの言葉を残した。
――次にお前が見る幻影は、もっと厳しい。
――それでも、お前は目を逸らすな。
次の瞬間、影は霧に溶けた。
そこには何も残らない。
だが“問い”だけが、より重く、より鮮明に残った。
デカルトは戦場の中央に立ち、長く息を吐いた。
吐息は白く曇り、すぐに消える。
彼はまだ答えを持たない。
だが、問いを抱えたまま歩く覚悟が、胸の奥で静かに形を取り始めていた。
足元の泥に、彼は一歩を刻んだ。
その一歩は、兵士の問いへの返事ではない。
だが、返事になろうとする一歩だった。
戦場の匂いは、なお濃い。
けれど、その匂いの中で、彼は初めて“考える”という行為の責任を知った。
そして彼は、次の死者の影の方へ――
ゆっくりと歩き出した。
つづく…










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