【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(23)第4章 阿修羅の涙 怒りの奥にある願い——④
尾根の岩場に立つ空海の背後で、空気が不自然に沈んだ。風は吹いているのに、音だけが遅れて届く。光は差しているのに、景色だけが薄く曇る。まるで世界が、息を止めたようだった。
空海は合掌しないまま、ゆっくりと振り返った。
そこに阿修羅が立っていた。
六つの腕。
焦げた鉄のような輪郭。
燃えるような眼。
だが以前のように、怒りが噴き上がっていない。
尾根の岩場に立つ空海の背後で、空気が不自然に沈んだ。風は吹いているのに、音だけが遅れて届く。光は差しているのに、景色だけが薄く曇る。まるで世界が、息を止めたようだった。
空海は合掌しないまま、ゆっくりと振り返った。
そこに阿修羅が立っていた。
六つの腕。
焦げた鉄のような輪郭。
燃えるような眼。
だが以前のように、怒りが噴き上がっていない。
山道は、次第に人の気配を失っていった。
村を離れてから、どれほど歩いただろうか。
足元の土は乾き、草はまばらになり、やがて道そのものが、曖昧な線へと変わっていく。
ここから先は、人が長く留まる場所ではない。
空海は歩みを止めなかった。
呼ばれているわけではない。
導きがあるわけでもない。
それでも、進まねばならない場所があると身体の奥が知っていた。
朝の光は、あまりにも静かに訪れた。
夜を裂くような強さではなく、ただ、闇の輪郭を少しずつ薄めていく柔らかな明るさ。
山の岩肌は淡く色づき、苔は露を含んで微かに輝いている。
空海は、まだその場に立っていた。
阿修羅が消えた岩場。
涙が落ちたはずの地面。
しかし、そこには何の痕跡も残っていない。
濡れた跡も、裂け目も、光の粒もない。
まるで、何も起こらなかったかのようだった。
だが、空海は知っていた。
何も残らない出来事ほど、深く残ることを。
山は、泣いているようだった。 夜明け前の薄闇の中、空海は一人、山中の道を歩いていた。 風はなく、木々は静まり返っている。 それでも、どこかで水が落ちる音がしていた。 岩を伝い、苔に吸い込まれ、また滴る―― その循環が、まるで嗚咽のように耳に残る。 空海は立ち止まり、合掌した。 祈りのためではない。 この場に満ちているものを、受け取るためだった。 胸の奥に、重たい気配があった。 怒り。 だが、人が抱く怒りとは、質が違う。 それは、爆発を欲していない。 叫びも、破壊も求めていない。
戦場を抜けたあとも、デカルトの内側では、何かが静かに軋み続けていた。
それは痛みではない。
だが、無視すれば確実に広がっていく種類の違和感だった。
幻影の師との対峙を経て、理性は沈黙し、再び歩き出した。
そのはずだった。
だが、歩き出した先で、彼は思いがけない壁に突き当たっていた。
――信仰。
その言葉が、これほど重く感じられたことはなかった。
霧が薄れたあとも、戦場は静かではなかった。
音は戻っていたが、それらはすべて距離を伴っていた。
叫びも、命令も、嘆きも――どれもが直接届かず、空気の層をいくつも越えてから耳に触れる。
デカルトは歩いていた。
第3節で立ち止まった場所を離れ、再び前へ進んでいる。
だが、その歩みは以前とは違っていた。
世界を把握しようとする視線ではなく、世界に身を委ねながら確かめるような歩みだった。
戦場を歩きながら、デカルトは気づいていた。
自分の内側で、何かが静かに止まり始めている。
それは恐怖ではなかった。
絶望でもない。
ましてや諦めではない。
――思考そのものが、言葉を失い始めている。
これまで、彼は世界を「理解できるもの」として扱ってきた。
疑い、分解し、再構成する。
理性とは、混沌を秩序へ変換する装置であり、人間が世界に対して持ちうる最も確かな武器だと信じてきた。
だが、いま彼の前に広がる光景は、その装置の外側にあった。
戦場の中央から少し離れた場所には、奇妙な静けさがあった。
剣戟も怒号もすでに遠く、ここにあるのは、命がゆっくりと失われていく音だけだった。音と言っても、耳で捉えられるものではない。呼吸が擦れる感触、血が土に染み込む気配、身体の熱が冷えていく時間――そうしたものが、重なり合って空気を満たしていた。
デカルトは歩いていた。
第1節で見た死者たちの影は、まだ網膜の奥に焼き付いている。だが、ここでは死はすでに終点ではなかった。終わりきれない命が、低く、しかし確かに呻いている。
最初に届いたのは、音ではなかった。
匂いだった。鉄が湿った空気に溶け、血の生臭さが土の匂いと絡み合い、そこへ焦げた木の残り香が重なっている。戦が終わったはずの場所が、まだ終わりきっていないことを、匂いだけが雄弁に語っていた。
デカルトは歩みを止め、息を浅く吸った。肺の内側がざらつく。風に乗った灰が喉の奥へ貼りつくようだった。遠くで旗布がはためく音がする。だがそれは勝利の鼓舞ではなく、空虚な布の擦過音にすぎない。音はあるのに、生がない。そういう感触があった。
視界の先で、大地が黒く染まっていた。草は踏み荒らされ、ぬかるんだ土には無数の足跡と轍が刻まれている。
霧がふたたび濃くなり、空海と弥勒を包み込んだ。
先ほどまでの曼荼羅の幻視は消え去り、世界はただ白と灰のあわいに沈んでいた。
だが、空海の胸には確かな余韻が残っていた。
弥勒の逆問に答えたとき、自らの内奥に「未熟さ」と「歩むべき道」の両方を同時に感じ取ったからだ。
彼は息を整え、ゆっくりと目を開いた。
そこに立つ弥勒は、ただ静かに微笑んでいた。
もはや言葉はなく、眼差しだけが彼に注がれていた。