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(5)洞窟の哲学者
東の空がほんのわずかに明るみはじめた頃、デカルトは荒野を彷徨い、風に削られた岩山の裂け目に小さな洞窟を見つけた。
入口は腰を屈めねば通れぬほど狭く、奥の様子は外からではわからなかった。だが、外気を避けるには十分に思えた。
身をかがめ、ゆっくりと足を踏み入れる。そこには意外な広がりがあった。奥行き数メートルの空間がひらけており、湿り気を帯びた空気が静かに満ちていた。
壁面には薄く苔が生え、夜明け前の仄かな光をわずかに吸い込みながら、かすかな燐光のようにきらめいている。水滴が岩の天井からぽつり、ぽつりと落ちていた。
デカルトは背を壁に預け、ゆっくりと外套を広げて体を包み込む。
膝を抱え、まぶたを閉じた。だが眠るためではない。閉じた瞼の奥に浮かぶのは、問い。
かつて自らに突きつけた根源的な疑問であり、今もなお決着を見ない思索の連なりだった。
「……洞窟。この場所を、逃避の象徴と見る者もいるだろう。
だが、今の私にはむしろ、理性を照らす鏡のように感じられる」
その言葉を口にしたとき、彼の声は洞窟内に静かに響いた。反響は微かだったが、それだけに余韻が耳に残る。まるで彼の声が、彼自身を反芻しているかのようだった。
「闇の中で光を探すのではなく、闇そのものを見つめること。
それこそが、今の私に必要な姿勢なのかもしれない」
闇とは無知か。あるいは、他者不在の孤独か。それとも、答えなき問いの底なのか――。
デカルトは洞窟の天井を見上げた。ひび割れた岩の模様が、どこか曼荼羅のようにも、星座のようにも見えた。
「理性は疑いを超えて、確かな足場を求める旅だ。
“我思う、ゆえに我あり”は、その旅の果てに見出した私の錨だ。
しかし……それは、私一人の確信にすぎない。
世界を繋ぐ、普遍たる理性はどこにあるのだろうか」
彼は岩の壁に手を当てた。
冷たい。確かに冷たい。それは感覚であり、思考だった。
だがその“確かさ”は、他者と本当に共有できるのか。
目を閉じればその冷たさは消える。ならば、それは真に“在る”といえるのか?
「私の理性が感じ、考えたものは、私の中に閉じこめられている。
他者の内にも理性があると、どうして言い切れるのか。
私とあなたの世界は、本当に交差しているのか……?」
自らの言葉に、彼はぞくりと背筋を震わせた。問いが自分自身を切り裂くようだった。
そのとき、洞窟の奥にふと影が揺れた。風か、あるいは幻か。
目を凝らすと、そこに現れたのは、――再びパスカルの姿だった。
「ルネ、あなたは理性を盾とし、剣としてきた。
だが、その剣は鋭すぎて、自らの心をも斬りつけてはいないか?」
淡い光のなかに浮かぶパスカルは、憐れみとも慈しみともつかぬまなざしを向けていた。
「人間は考える葦にすぎない。風に揺られ、折れる存在。
だが、その脆さのなかにこそ、光は宿る。
闇を受け入れ、問いに震える心の隙間に、理性の次の道が現れるのだ」
デカルトは唇を噛み、答えた。
「……葦は折れる。だが、考えることをやめなければ、
人は自らの弱さを超える道を見い出せる。理性は、その道しるべだ」
パスカルはただ、ゆっくりと首を振った。
「理性は人を導く灯火でありながら、孤独という影を伴う。
理性に囚われた者は、他者を遠ざけ、自己の檻に閉じこもってしまう危険もあるのです」
その言葉とともに、パスカルの影は再び洞窟の闇へと消えた。
だが、その言葉の残響だけが、なお洞内に淡く残っていた。
デカルトは黙って膝を抱えた。
孤独。それは彼にとって新しいものではなかった。だが今、その孤独がいっそう深く、冷たく、静かに心を蝕んでくるのを感じていた。
「理性が私を救うのならば、それは私一人を救うものだ。
他者を導く力にはならないのかもしれない……」
彼は額に手を当て、長く深いため息をついた。洞窟の壁が冷たい。
それは外気のせいか、それとも、自らの思考が引き起こす内なる寒さか。
それすらも判別できないことが、彼の心をさらに不安にさせた。
「……理性を信じることは、孤独を選び続けることなのか?」
その呟きが、彼の胸の奥に沈んでいく。
だが、次の瞬間、岩の裂け目から一本の光が差し込んだ。
朝日だった。夜の闇を切り裂くように、細く、しかし確かな一本の線が、苔の緑を淡く照らし出す。
その光は、洞窟という密閉された闇の中にあってなお、彼の視界を射抜いた。
闇のなかに在る光。それは、理性が届くか届かぬかの境界にある、“兆し”そのものだった。
デカルトはゆっくりとその光を見つめ、言葉を発した。
「……暗闇があるからこそ、光は意味を持つ。
孤独があるからこそ、問いは生まれる。
ならば、私は……この孤独を抱えて、なお歩み続けよう」
言葉は洞窟の静寂に吸い込まれた。だが、それは確かな決意として彼の内に残った。
彼は立ち上がり、外套の埃を払い、光の差す方へと歩を進めた。
洞窟の口から吹き込む冷たい風が、頬を撫でたが、それすらも生の証のように感じられた。
荒野はまだ広がっている。その先に答えがあるかどうかは分からない。
それでも、歩む者だけが見る風景があると、彼は信じた。
つづく…
【次回予告】
長く続いた沈黙の荒野。
ふたりの足取りは重く、霧はまだ晴れていない。
けれど、ある瞬間――
その灰色の世界に、ほんのかすかな光が射し込んだ。
それは、言葉ではなく、誰かのまなざしや、小さな行為や、祈りの残り香。
名もなき光が、見えない未来をほのかに照らし始める。
空海はそれを「縁のひとつ」と呼び、デカルトは、それを“確信”ではなく“感応”として胸に刻む。
次回、過去の傷と現在の祈りが交差する場所で、ふたりは“失われた時間”にかすかな温もりを見出す。
闇の中に灯るその微光こそが、旅を導く新たな座標となる――。
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