(1)沈黙の水際——身体をめぐる問いの始まり
小川のせせらぎが、山の静寂に染み入るように響いていた。空海とデカルトは、その細流に沿ってゆっくりと歩いていた。木々は高くそびえ、葉のすき間から光が斜めに差し込み、水面を煌めかせている。
「この流れる水を“わたし”と言えるだろうか」
ふいに立ち止まった空海が、声を落とすようにしてつぶやいた。
デカルトは眉をひそめた。「水は、確かに形を変えながら流れている。しかし、我々の“自我”は、そうした流動的なものではなく……理性的な主体として、思考することで確かな輪郭を得るものだと、私は考えてきました」
空海は黙ってうなずく。だがその表情には、どこかやわらかな違和感がにじんでいた。
「では、問いましょう……」空海は再び口を開く。「あなたが岩に躓いて、足を打ち、痛みを感じるとする。その“痛み”は、どこにあると思われますか?」
「それは……身体に生じる現象です。しかし、それを『痛み』として感じているのは、私の心、意識です。したがって、その情報は感覚器官から脳へと伝わり、私の“思惟”がそれを把握するのです」
「そう、そうですね」と空海は水面を見つめたまま微笑んだ。「……では、もし思惟が“感じること”を選ばなければ、痛みは存在しないのですか?」
デカルトは答えに詰まった。小川の流れが、彼の沈黙を包み込むように続いていた。
「“我思う、ゆえに我あり”という言葉は、私の哲学の基礎です」デカルトはゆっくり言葉を紡ぐ。「しかし今、私は気づき始めています。“我感じる”という次元が、思考以前に存在しているのではないか……と……」
空海は軽く頷いた。「それは仏教で言うところの“受”という領域です。世界は五感を通じて私たちの内側に入り、私たちの“心”と“身”は、その波に応じて響きます。思考とは、そのあとからやってくるものかもしれません」
ふたりの足元には、まるで心の流れのように透明な水が通っていた。石の上に反射した光が揺れ静かに問いかける。「理性にとって、“身体”とは、時に思考の妨げであり、錯誤の源泉でもあります」とデカルトは苦笑する。「私は長らく、身体とは魂とは別の、機械仕掛けのような存在だと考えてきました。けれど、それだけでは、説明できないものがあると感じ始めています」
「身体とは、世界と触れ合う窓であり、同時に心の鏡でもあるのです」と空海。「仏道においては、身体こそが修行の場であり、悟りへの道そのものです。“身”をおろそかにして“心”に至ることはできません」
その言葉は、デカルトにとって新鮮でありながら、どこか懐かしい響きだった。彼の中で何かが、少しずつ解け始めていた。
やがて空海は水辺にしゃがみ込み、掌を流れに浸した。「……冷たいですね」と彼は言った。「けれど、この冷たさを感じる掌も、またこの世界の一部です。“私”が“世界に触れている”のではなく、“世界が私に触れている”のかもしれません」
デカルトは、その姿をじっと見つめていた。理性では掴めない何かが、そこにある気がしてならなかった。
「身体を問い直すということは、自我そのものを問い直すことにつながるのかもしれませんね」と彼はぽつりと言った。
空海はゆっくりと立ち上がり、続く山道を指さした。「この先に、もう少し開けた場所があります。そこで、あなたの“身体の記憶”について聞かせてください」
そうしてふたりは再び歩き出した。水の音はその後ろから静かに追いかけ、そして前へと導くように流れ続けていた。
(2)デカルトの告白
山道を登り切ると、視界がひらけた。眼下には、木々の緑と谷間を流れる小川が、ひとつの織物のように広がっている。遠くには、霞むような山並みが連なり、その上を雲がゆっくりと流れていた。
デカルトは風を受けながら、岩に腰をおろした。空海は黙ってそばに立ち、風の中に沈黙を置いた。
「私は若い頃、ひどい熱病にかかったことがあります」デカルトが、ぽつりと口を開いた。「病の最中、意識は混濁し、言葉も記憶も曖昧になっていきました。ただ、痛みと、寒気と、耐えがたい圧迫感だけが、全身を覆っていた。私は思考すらままならず、自我が崩れていくような感覚に襲われたのです」
空海は目を伏せ、小さく頷いた。「思考が沈黙し、身体だけが語り出すとき、人は否応なく“在ること”の深みに触れるのです」
「その体験は、私の哲学に深い爪痕を残しました」とデカルトは続けた。「自我とは本当に“我思う”ことによって立ち現れるのか。あるいは、思考が沈んでもなお、何かが在り続けるのではないかと……」
空海はそっと、岩の隙間に咲く小さな花を指差した。「この花は、思考を持ちません。けれど、風に揺れ、光に反応し、土と水を感じ取っています。“心”とは、そうした感応の力ではないでしょうか」
「感応……」デカルトはその響きを反芻するように繰り返した。「それは理性による理解とは異なるものですね。私たちが“意識”と呼んでいるものは、もっと広く、深い海の表面にすぎないのかもしれない」
空海はしばらく考え込むと……「真言密教では、“心”という言葉は、単なる精神活動を指すのではありません。心は、世界のリズムと共鳴する場であり、そこに“身”もまた共にある。あなたの語った“痛み”の記憶は、心と身が同時に震えていた証拠です」
「なるほど……」デカルトは遠くを見つめながらつぶやく。「私は、“松果腺”という脳の一部に、心と身体の接点があると考えました。けれど、あれはあくまでも、理性による探求の産物でした。空海、あなたの言う“場”という言葉に、私は初めて、手応えを感じています」
「“場”とは、空間ではなく、関係性です」空海はそっと両手を手を広げた。「心が身に宿るのではなく、身が心と世界に触れることで、“心”が立ち現れる。つまり、“我在り”とは、“関係の中に我あり”ということなのです」
デカルトの目が、思わず空を仰いだ。高く澄んだ空が、どこまでも広がっていた。彼の中で、哲学の古い骨組みが、かすかに軋む音を立てていた。「私がずっと追い求めていた“確実な根拠”は、もしかすると、“関係の感受”のなかにこそ宿るのかもしれません」デカルトの声は静かで、しかしどこか震えていた。
「“自我”を独立した存在として捉える限り、世界はただの背景となります」空海は続けた。「しかし、世界のなかで身体が震え、風に触れ、痛みによって揺らぐとき、そこにこそ“在ること”の証が生まれるのです」
その言葉に、デカルトはしばらく黙していた。風が木々を揺らし、鳥が高く鳴いていた。
「私の哲学は、疑うことから始まりました」デカルトはゆっくりと立ち上がった。「けれど、いま私は、“感じること”から問い直さねばならないと感じています。心と身体、理性と感受、それらを切り離すことで見えなくなっていた何かが、ようやく輪郭を帯び始めた気がします」
空海は微笑み、頷いた。「それこそが“分水嶺”です。水は、ひとたび山を越えれば、別の流れに乗る。しかし、分かれた水は、やがてまた海でひとつになります」
「心と身も、そうした流れのようなものか……」デカルトの声には、思索の余韻が滲んでいた。
ふたりは再び歩き出した。風にゆれる草の音が、言葉の届かない領域から、何かを語っているように感じられた。
(3)身体に宿る仏——密教的身体論
登り坂を抜けた先に、小さな堂宇がひっそりと立っていた。風雨にさらされて色あせた木の扉には、いくつかの真言が記されている。軒下には風鐸が吊られ、かすかな音をたてていた。
空海はその前で足を止め、軽く一礼してから、静かに言った。
「ここは、かつて山中修行者が身を清め、祈りを捧げた場所です。なにも飾らず、ただ“身”を通して仏に触れるための空間です」
デカルトはその簡素な佇まいを見つめていた。壁も、仏像も、荘厳な装飾もない。ただ、空気だけが、濃密だった。
「装飾も経文も、ここには見られませんね」彼は問うた。「それでも祈りは成立するのでしょうか」
「“祈る”とは、言葉を唱えることではありません」空海は堂の前に座をとり、膝を組んだ。「“祈り”とは、身と口と意がひとつになること。真言密教ではこれを“三密”といいます。身を整え、声を発し、意を注ぐ。その三つの行為が重なったとき、仏と我とが共鳴し合うのです」
デカルトは、その言葉を興味深そうに噛みしめた。
「つまり、身体がただの“器”ではなく、祈りの媒介であるというわけですね。私にとって、身体はしばしば“精神”を制限する要因でありましたが……あなたはそれを“悟りの道具”と捉えている」
「いえ、“道具”ではありません」空海は穏やかに否定した。「身は“仏の現れ”そのものです。手を合わせること。声に真言を乗せること。息を整えること。そのすべてが、すでに仏を顕しているのです」
風がひとしきり堂の中を通り抜けた。何かが、場を洗い清めていくような感覚があった。
「仏とは、“概念”ではなく、“体現”なのですね」デカルトはゆっくりと口にした。「我々西洋哲学では、神は思惟の果てにおいて信仰される存在でした。けれど、あなた方は、“仏”を自らの身体を通して生きるものとして捉えている……その違いは大きい」
「それが“即身成仏”の思想です」空海は言葉を重ねた。「来世で仏になるのではなく、今この身のままで仏となる。だからこそ、身体の動きひとつ、呼吸ひとつ、目の動きさえも、仏の働きとなるのです」
デカルトは堂の床に腰をおろした。彼はゆっくりと深呼吸をし、目を閉じてみた。呼吸のひとつひとつが、自分の中に“重さ”をもって広がっていくのを感じた。
「面白い……」彼は目を開け、呟いた。「私はいま、身体のなかに“存在の厚み”のようなものを感じています。それは、思考の鋭さとは別の次元で、確かに“私”を支えている」
「それが“身の智慧”です」空海は静かに微笑んだ。「仏教では、“智慧”とは理屈ではありません。身体で覚え、身体で気づき、身体で溶けていく……その過程が、すでに“覚り”に他なりません」
「言葉にならぬ智慧……それは、私の理性が最も手こずってきた領域です」デカルトは苦笑した。「けれど、いま私はようやく理解し始めている気がします。思考する私とは、ただの“論理の機械”ではなく、“感じ、祈り、響く身体”をともなった存在なのだと」
その瞬間、堂内に一陣の風が吹き抜け、扉の奥の空間がわずかに開いた。差し込んだ光が、床に丸く照らされる。まるで、仏がそこに“降りてきた”ように、空間がやわらかく輝いた。
空海が言った。
「あなたが今感じたもの、それが“身の仏”です。思考ではなく、触れること、座すこと、息を合わせること、そのすべてが仏に通じている。人は身体によって世界とつながっているのです。そして、そのつながりの中にこそ、“真理”は宿るのです」
デカルトは深く息を吐き、胸に手をあてた。
「身体を否定しては、心の全貌を理解することはできない……そのことが、ようやく腹に落ちました。空海、私はこの旅で、かつての自分の哲学を、一度壊さねばならないかもしれません」
空海はにこりと笑った。
「壊すことは、始まりです。破れてなお在るもの、それが“実相”です。心と身が分かたれているのではなく、常にひとつの響きとして在るということ。その響きに耳を澄ませることが、私たちの修行なのです」
沈黙がふたりを包んだ。堂の中に満ちる光と風、そしてふたりの呼吸が、ひとつの静かな和音のように重なっていた。
つづく…
次回投稿 小説「心の座標」(6) 第3章―②
2025年07月06日(日) 21:00 公開
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