序章 別離の夜、門を前に
山の上に、風のない夜が降りていた。
星はうすく、月は刃のように細い。
黒い樹々の縁が空を切り取り、石段の上に薄い霜の気配を置いてゆく。
二人はその石段を登りきり、門の前に立った。
門は漆黒で、四隅を金具が固めている。円文と蓮が彫られ、古い呼吸を続けているように見えた。手を触れれば、冷たさの奥にかすかな温もりが宿っているのが分かる。
幾度となく開き、幾度となく閉じ、数え切れぬ問いがここをくぐったのだろう。
空海が小さく合掌し、瞑目する。
「この門は、歩む者のかたちに従って開きます。
閉じているように見えるのは、心がまだ名を欲しがっているからです」
デカルトは門を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。
「名は、異なるものを区別し、思考を整えるための器だ。
だが器は、ときに水の流れを忘れさせる」
空海は目を開き、微笑とも沈黙ともつかぬ表情で言った。
「器が水を拒むのではなく、水が器を選ぶこともある。
あなたの水が、あなた自身の器を探しているのです」
二人はしばらく言葉を置かなかった。遠く、谷の底でゆっくりと流れる水の音がする。見えない川が、石同士を擦り合わせている。
夜は深く、しかし切れ目はある。切れ目は風ではなく、思考と祈りのあいだに生じる。
デカルトが口を開いた。
「ここからは、私一人で確かめたい。
私が私であることの根を、他者の光でなく、自分の闇で触れてみたいのです」
空海は頷いた。
「闇は否定ではありません。光がまだ名付けられていないだけの場所。
あなたがその場所に座るなら、闇は座布団になり、やがて灯明になるでしょう」
軽い沈黙。門の金具が夜露を吸い、微かな鳴きを洩らす。
空海は数珠を右手に持ち替え、ひとつ、ふたつと無言で送った。音は鳴らない。
珠はただ、指先の熱を覚え、次の珠へと移る。
数えるのは回数ではなく、去来する心の数だった。
「師よ」デカルトは珍しく、その呼称をためらいなく口にした。
「私たちはまた会えるでしょうか。
もし再会が宿命なら、今別れる理由は何でしょう」
空海は門の木目に視線を落とした。
「再会は結果、別れは方法。
方法がなければ、結果は同じ名でしか現れません。
あなたは“同じ”を離れるために行き、私は“同じ”の奥に留まって待つ。
どちらも同じ門です」
「同じ……門……」
デカルトは黒い表面に指を伸ばし、すぐに引っ込めた。
冷たさが皮膚から骨へ伝わるのを恐れたわけではない。
ただ、触れること自体が一つの決断に見えた。
空気がわずかに揺れた。見えない誰かが、二人の間を通り抜けたようだった。
香の気配がした。松の樹液が月を吸い、夜に少し甘みを足している。
空海が言った。
「問いは、答えを求めて起きるのではありません。
歩むために起きるのです。あなたの問いは足であり、私の問いは呼吸です。
足は前へ、呼吸は内へ。行き先が違っても、同じいのちを運ぶ」
デカルトは微笑を返した。
「ならば私は歩きましょう。私の足が、私の考える葦を支えるうちに」
「葦は折れます」
空海はやわらかく言った。
「しかし折れる場所に光が宿る。傷は、光の入口です」
その言葉は、門の金具よりも静かに響いた。
デカルトは肩の力を抜き、月を見上げた。夜の刃は薄いが、よく切れそうだった。
考えの余白を、そっと細断してくれるほどに……
「行きましょう」デカルトは自分に向けて言い、続けて空海に向き直る。
「師よ……あなたは?」
空海は門前の石に腰をおろし、衣の裾を整えた。
「私はここで、来ない風を待ちます。
風が来れば、あなたは匂いで道を思い出すでしょう」
デカルトは頷いた。
彼は赤い外套の襟を立て、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
肺の奥まで夜が満ちる。その冷たさは、恐怖の刃ではなく、思考の磨きだった。
そのとき、どこからともなく、笑みの気配が過ぎった。
温度も音もない、未来の微笑み――それは、まだ名前のない慈悲の予感だった。
何かが遙か先で芽吹き、ここに微細な香りだけを先に送って寄こす。
弥勒という言葉が、夜のどこかでまだ眠っている。
同じく、熱い息が遥かな地平からこちらを窺う。
怒りか、叫びか、あるいは涙か……
阿修羅という名が生まれる前の、ただの熱……
さらに、沈黙の中心でじっと座す輪郭のない人影。
近づけば言葉を失い、離れれば名が戻る。
その名は釈迦と呼ばれるだろうが、今はただ、沈黙の光として在る。
デカルトはそのいずれも知らない。だが知らぬままに、その気配に押されて一歩を踏み出した。
石段の端で小さな砂が鳴る。彼の影は月の刃を避けるように細長く伸び、すぐに樹々の根に飲み込まれていった。
空海は座ったまま、去っていく背中に目を凝らした。目は見ているが、見てはいない。
彼は門を見ている。門は夜を吸い、夜は門を磨く。
数珠の珠がふたたび指先を渡り、数えられない問いが静かに通過する。
やがて空海は掌を胸に当てた。胸の奥で、まだ言葉にならない鐘がゆっくりと鳴る。
最初の打ち消えた余韻が、谷の水音と重なる。
「行きなさい」と彼は声なき声で告げる。
「あなたの問いが、あなたを運び、私の沈黙が、あなたを受け止める」
夜は深まる。だが切れ目はある。
切れ目に、遠い未来の灯が細く差し、門の金具に一瞬の白い線を置いた。
空海はその線の余韻に目を細め、再び瞼を閉じた。
別離の夜は、門の前で二つに割れた。
一つは荒野へ、一つは内奥へ。
どちらも同じ道行きであることを、まだ二人は知らない。
しかし、知らないことが、旅の初めにはふさわしい。
つづく…
【次回予告】
それは、時の裂け目に落ちたひとつの魂の記憶。
名もなき荒野を、ひとり歩く影。
あたりには言葉もなく、音もない。
ただ、白い霧だけがゆっくりと降り積もっていく。
空海も、デカルトも、まだ“誰か”であることを忘れかけ、
沈黙のなかに浮かぶ己の輪郭を手探りでなぞっていた。
この章は、失われた時間の最初の一歩。
存在の名をなくしたまま、ふたりは、
過去とも未来とも言えぬ“空白”に沈んでいく。
次回、霧の奥でふたりを待つのは、
記憶か、それとも幻想か。
孤独という名の荒野で、かすかな座標がまたひとつ灯りはじめる。
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