小説 『こころの座標』 (13) 第6章―③

小説『こころの座標』(13)第六章 観照の彼岸

(3)形なきものを映す ―― 無意識と象徴の深層

 夜明けの静けさが、谷に柔らかく降りていた。
 一日の歩みを終えたデカルトと空海は、今宵も山中の仮庵に身を寄せていた。焚き火の赤い光が壁に揺れ、ふたりの影をぼんやりと浮かび上がらせていた。

「人は、形あるものを求める」とデカルトが言った。
「だが……私は今、形を失った“何か”のほうに心を惹かれている。理性では掴めない、深く、柔らかく、流れ続けるものに……」

 空海は静かに頷いた。

「それは、あなたの心が“無意識”という大海に触れ始めた証です。そこは言語ことばの届かぬ領域。だが霊性の観照においては、そここそがもっとも豊かで、象徴に満ちた源泉なのです」

「象徴……?」

「はい。夢に現れるもの、ふとした直感に浮かぶ像、心に残る風景――それらはすべて、形を持たぬ“意味”を伝えるための道標。観照はそれらの象徴を読み解く静かな技法でもあるのです」

 デカルトは焚き火を見つめた。炎がちらちらと揺れ、灰のなかに赤い脈動を残していた。

 その瞬間、彼の意識がふと遠のくように感じた。

「……私は、かつて子供のころに見た夢を思い出しました。暗い部屋のなかで、鏡の中の自分がこちらを見つめ返してくる夢です。だがその“自分”は、私ではない。目が……異質なのです。言葉では言い表せないが、何か根源的な“他者”が私の姿を借りて立っていた」

 空海は目を伏せた。

「それは、あなたの無意識が投影した“影”です。仏教では阿頼耶識あらやしきの作用とも重なります。あなた自身の深層が、象徴を通じてあなたに語りかけてきたのです」

「私はそれを、ずっと理屈で解釈しようとしてきました。論理、因果、意味……だが、それは“語りえぬもの”だった」

「語りえぬものは、時に象徴となって立ち現れます。そしてその象徴は、観照という鏡のなかに初めて意味を帯びるのです」

 デカルトは、深く頷いた。
 火が、ぱちりと音を立てた。
 そして彼の意識は、再び、形なき夢の深淵へと落ちていった。

 その夜、デカルトは再び夢を見た。

 最初に現れたのは、どこまでも静かな水面だった。風もなく、音もない。その水面には、星も月も、自分の姿も映っていない。ただの“透明な無”であった。

 だがやがて、水面に一筋の波紋が広がった。その波紋の中心から、ひとつの“舟”が浮かび上がってきた。

 舟には誰も乗っていなかった。ただ、漕ぐ者もおらず、帆も張っていないその舟が、水の上をゆっくりと進んでいった。

 どこへ向かうのかもわからぬまま、舟は進む。

 気づけば、デカルト自身がその舟の上に立っていた。足元は冷たく、手には何も持っていなかった。ただ、胸の奥から何かが響いていた――言葉ではない、響きである。

 そのとき、空が開いた。上空から、無数の“目”がこちらを見つめていた。ひとつひとつの目は異なった色と形をしていた。怒っている目、笑っている目、悲しんでいる目、無表情な目。

 それらすべてが、デカルトを凝視していた。

「――見られている」

 彼はそう思った。だが恐怖はなかった。むしろ、それは“受容”だった。自己が他者に見られることで、はじめてその存在が照らされる。そういう感覚だった。

 そして、彼の足元の舟が、音もなく溶けていった。

 舟は消え、水面も消え、彼は宙に浮いた。

 無数の目とともに、無限の象徴が、心の深奥から湧き上がってきた。

 鏡、鍵、扉、砂時計、鳥、炎、そして声なき声。

 それらは言葉にならなかったが、どれもが確かな“意味”を宿していた。

 ――自己は、言語の外で生まれる。

 ――意味は、象徴によって生きている。

 その響きが、デカルトの夢のなかに繰り返し木霊こだました。

 目覚めたとき、焚き火の火はすでに灰となり、庵の外では朝靄が再び谷を包んでいた。

 空海はすでに起きて、庵の入口で静かに座っていた。背筋を伸ばし、朝の風を胸いっぱいに吸い込んでいた。

「空海……私は、夢を見ました」

 デカルトはゆっくりと語り始めた。

 彼の語る夢の象徴に、空海は一つひとつ頷いた。

「それらは、すべてあなたの無意識の曼荼羅です」

「曼荼羅……?」

「はい。夢の中に現れる象徴は、あなたの深層意識が構成する“宇宙”そのものです。それは個人的であると同時に、普遍的でもあります。曼荼羅とは、そうした個と宇宙の交点を映す“心の鏡”なのです」

「私の中に……宇宙がある……」

「そして、その宇宙は“観照”によってのみ、静かに開かれてゆくのです。理性はそこに触れることはできませんが、あなたの心は、もうそこへ届いています」

 デカルトは黙って頷いた。彼の胸には、言葉ではなく、象徴によって残された深い余韻があった。

「夢とは、記憶でも幻想でもなく……響きの海なのですね」

「ええ。夢のなかで語られることなき物語こそが、最も深い真理に近づく。観照とは、その語られざる物語を“感じる”ための技法でもあるのです」

 そしてふたりは、言葉少なに再び歩き出した。

 静かな霧のなかへ。
 形なき象徴の声を聴きながら――。

つづく…

次回予告 「こころの座標(14)」第六章―④
 観照の技法 ―― 呼吸・|印契《いんげい》・光の瞑想

光の世界で溶けあったふたりの影は、やがて深い静けさへと導かれていきます。声を失った理性、ことばを超えた祈り。

その沈黙の奥で、空海はやさしく告げます――「真実は、語らずとも、ここにあります」と。

デカルトは、その響きに耳を澄ませ、ひとつの“扉”が内側で開いていくのを感じはじめます。

次回、沈黙が語り、魂が応える。新たな理解が芽生える瞬間を、どうぞご一緒に。
「こころの座標」観照の技法 ―― 呼吸・印契・光の瞑想 …ご期待下さい!

2025年08月09日(土) 21:00 公開

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お寺の住職をしております。 昨今よく耳にするのは、先祖代々の宗派がわからない、菩提寺が地方にあるため何年も供養をしたことが無い等でお困りの方が多くいらっしゃいます。 ご法事・供養でお悩みの方、水子供養・お祓いなどお気軽にお寺にご相談下さい。