(3)形なきものを映す ―― 無意識と象徴の深層
夜明けの静けさが、谷に柔らかく降りていた。
一日の歩みを終えたデカルトと空海は、今宵も山中の仮庵に身を寄せていた。焚き火の赤い光が壁に揺れ、ふたりの影をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「人は、形あるものを求める」とデカルトが言った。
「だが……私は今、形を失った“何か”のほうに心を惹かれている。理性では掴めない、深く、柔らかく、流れ続けるものに……」
空海は静かに頷いた。
「それは、あなたの心が“無意識”という大海に触れ始めた証です。そこは言語ことばの届かぬ領域。だが霊性の観照においては、そここそがもっとも豊かで、象徴に満ちた源泉なのです」
「象徴……?」
「はい。夢に現れるもの、ふとした直感に浮かぶ像、心に残る風景――それらはすべて、形を持たぬ“意味”を伝えるための道標。観照はそれらの象徴を読み解く静かな技法でもあるのです」
デカルトは焚き火を見つめた。炎がちらちらと揺れ、灰のなかに赤い脈動を残していた。
その瞬間、彼の意識がふと遠のくように感じた。
「……私は、かつて子供のころに見た夢を思い出しました。暗い部屋のなかで、鏡の中の自分がこちらを見つめ返してくる夢です。だがその“自分”は、私ではない。目が……異質なのです。言葉では言い表せないが、何か根源的な“他者”が私の姿を借りて立っていた」
空海は目を伏せた。
「それは、あなたの無意識が投影した“影”です。仏教では阿頼耶識あらやしきの作用とも重なります。あなた自身の深層が、象徴を通じてあなたに語りかけてきたのです」
「私はそれを、ずっと理屈で解釈しようとしてきました。論理、因果、意味……だが、それは“語りえぬもの”だった」
「語りえぬものは、時に象徴となって立ち現れます。そしてその象徴は、観照という鏡のなかに初めて意味を帯びるのです」
デカルトは、深く頷いた。
火が、ぱちりと音を立てた。
そして彼の意識は、再び、形なき夢の深淵へと落ちていった。
その夜、デカルトは再び夢を見た。
最初に現れたのは、どこまでも静かな水面だった。風もなく、音もない。その水面には、星も月も、自分の姿も映っていない。ただの“透明な無”であった。
だがやがて、水面に一筋の波紋が広がった。その波紋の中心から、ひとつの“舟”が浮かび上がってきた。
舟には誰も乗っていなかった。ただ、漕ぐ者もおらず、帆も張っていないその舟が、水の上をゆっくりと進んでいった。
どこへ向かうのかもわからぬまま、舟は進む。
気づけば、デカルト自身がその舟の上に立っていた。足元は冷たく、手には何も持っていなかった。ただ、胸の奥から何かが響いていた――言葉ではない、響きである。
そのとき、空が開いた。上空から、無数の“目”がこちらを見つめていた。ひとつひとつの目は異なった色と形をしていた。怒っている目、笑っている目、悲しんでいる目、無表情な目。
それらすべてが、デカルトを凝視していた。
「――見られている」
彼はそう思った。だが恐怖はなかった。むしろ、それは“受容”だった。自己が他者に見られることで、はじめてその存在が照らされる。そういう感覚だった。
そして、彼の足元の舟が、音もなく溶けていった。
舟は消え、水面も消え、彼は宙に浮いた。
無数の目とともに、無限の象徴が、心の深奥から湧き上がってきた。
鏡、鍵、扉、砂時計、鳥、炎、そして声なき声。
それらは言葉にならなかったが、どれもが確かな“意味”を宿していた。
――自己は、言語の外で生まれる。
――意味は、象徴によって生きている。
その響きが、デカルトの夢のなかに繰り返し木霊こだました。
目覚めたとき、焚き火の火はすでに灰となり、庵の外では朝靄が再び谷を包んでいた。
空海はすでに起きて、庵の入口で静かに座っていた。背筋を伸ばし、朝の風を胸いっぱいに吸い込んでいた。
「空海……私は、夢を見ました」
デカルトはゆっくりと語り始めた。
彼の語る夢の象徴に、空海は一つひとつ頷いた。
「それらは、すべてあなたの無意識の曼荼羅です」
「曼荼羅……?」
「はい。夢の中に現れる象徴は、あなたの深層意識が構成する“宇宙”そのものです。それは個人的であると同時に、普遍的でもあります。曼荼羅とは、そうした個と宇宙の交点を映す“心の鏡”なのです」
「私の中に……宇宙がある……」
「そして、その宇宙は“観照”によってのみ、静かに開かれてゆくのです。理性はそこに触れることはできませんが、あなたの心は、もうそこへ届いています」
デカルトは黙って頷いた。彼の胸には、言葉ではなく、象徴によって残された深い余韻があった。
「夢とは、記憶でも幻想でもなく……響きの海なのですね」
「ええ。夢のなかで語られることなき物語こそが、最も深い真理に近づく。観照とは、その語られざる物語を“感じる”ための技法でもあるのです」
そしてふたりは、言葉少なに再び歩き出した。
静かな霧のなかへ。
形なき象徴の声を聴きながら――。
つづく…
次回予告 「こころの座標(14)」第六章―④
観照の技法 ―― 呼吸・|印契《いんげい》・光の瞑想
光の世界で溶けあったふたりの影は、やがて深い静けさへと導かれていきます。声を失った理性、ことばを超えた祈り。
その沈黙の奥で、空海はやさしく告げます――「真実は、語らずとも、ここにあります」と。
デカルトは、その響きに耳を澄ませ、ひとつの“扉”が内側で開いていくのを感じはじめます。
次回、沈黙が語り、魂が応える。新たな理解が芽生える瞬間を、どうぞご一緒に。
「こころの座標」観照の技法 ―― 呼吸・印契・光の瞑想 …ご期待下さい!
2025年08月09日(土) 21:00 公開
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