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(4)現在の苦悩
霧に包まれた空間は、静寂を極めていた。 空海の胸には弥勒との対話の余韻が残りつつも、同時に新たな葛藤が渦巻いていた。
未来に成就する慈悲――その真理の響きは確かに胸を震わせた。
だが、彼の眼には飢えに苦しむ人々、涙を流す者たちの姿が焼きついて離れなかった。
空海は一歩、弥勒に近づいた。
「未来の光が約束されているとしても、いま苦しむ者にとって、その光は遠すぎます。
今日を生き抜けない命にとって、未来は閉ざされている。
どうすれば私は、この矛盾と向き合えるのでしょうか……」
声は震えていたが、迷いではなく切実さが込められていた。
弥勒は答えず、ただ右の手をかざした。その瞬間、霧が大きく揺れ、光の幕が広がった。
そこに映し出されたのは、飢えた子どもたちの姿だった。
骨ばった腕、乾いた唇。母親は必死に胸に抱きながらも、乳は出ず、子は泣く声さえ失っている。
次の瞬間には戦場が広がった。倒れ伏す兵士、血に濡れた地面、空を覆う黒煙。呻き声が響くが、誰も救う者はいなかった。
さらに、病に伏す人々の姿が映った。
腐敗した村の小屋、うめき声、冷たい布団に横たわる人々。彼らの瞳には「生きたい」という渇望があった。
空海はその光景を目にし、膝が震えた。思わず地に座り込み、合掌した。
「これが……現在の苦悩……」言葉は風に散り、涙が頬を伝った。
弥勒の声が、静かに空間を満たした。
「あなたが見ているのは幻ではない。人の苦悩は永遠に繰り返される。
未来に慈悲が成就するのは、これらの苦悩があったからこそだ。
苦悩なき未来はありえぬ。苦悩こそが、慈悲の土壌となる」
その言葉は真理であった。だが同時に、冷酷な響きを帯びていた。
空海は声を震わせた。
「ならば、私たちはただ待つしかないのですか?
救いが成就するまで……
無数の命が失われるのを見過ごすしかないのですか!」
弥勒は静かに微笑んだ。
「未来を待つのではない。未来はすでに、いま芽吹いている。
人が一瞬でも他者を思うなら、その思いは未来の花へとつながる。
あなたの祈りも、言葉も、行いも――すべてが未来を呼び込む種となるのだ」
空海は俯いた。
「私の祈りは小さい。私の力は限られている。
あまりに小さな種で、荒野にすぐ消えてしまうのではないか……」
その言葉に応えるように、再び幻視が揺らいだ。
そこには、幼い子どもに粥を分け与える母親の姿があった。
兵士が瀕死の仲間を背負い、必死に逃げる姿があった。
老僧が村の病人の傍らで経を唱える姿もあった。
弥勒の声が重なった。
「見よ、これらの行いは大きな救いではない。
だが、種を守る手である。
慈悲は小さな行為に宿り、それが未来を呼ぶ。
あなたの力が小さくとも、無駄ではない」
空海は涙を拭い、立ち上がった。胸に熱いものが広がっていた。
「私は理解しました。
未来に成就する慈悲は、いまの苦悩と切り離されたものではない。
苦悩の只中でこそ、慈悲は芽を出す。
ならば……ならば……私は、小さくとも種を守る者でありたい。
祈りを行為に変え、行為を未来へつなぐ者でありたい!」
弥勒は微笑を深め、静かに頷いた。
その頷きは祝福のようであり、試練を承認する印のようでもあった。
霧は再び静まり、幻視は消えた。
残されたのは山中の沈黙。だがその沈黙は、もはや虚しい空白ではなく、未来への胎動を孕んだ沈黙だった。
空海は胸に手を置き、静かに言った。
「現在の苦悩を抱きながら、未来を信じる。これこそ、私が歩む道だ」
その言葉は霧に溶け、風となって山を下りていった。
つづく…
【次回予告】
──沈黙の先に待つ、自己の裏面と対峙する夜。
空海が歩む霊的旅路は、いよいよ〈逆門〉と呼ばれる禁断の領域へと差しかかる。そこは、理性も慈悲も試される深奥——時間の軸がねじれ、自己と非自己の境界が崩れゆく場。
弥勒との邂逅によって照らされた「未来の光」は、果たして現在を超えて導く光明たりえるのか。それとも、空海自身の奥底に眠る“超えられぬ影”を露わにする引き金となるのか。
この節では、空海がその身ひとつで挑む“逆流する問い”が描かれます。
外なる敵ではなく、内なる矛盾と渇望。
正しき道を選んだはずの過去すらが揺らぎ、光と闇が反転するような幻視の中で、空海は何を見いだすのか。
——門は外ではなく、己の中にあった。
開かれるのは未来か、それとも終焉か。
試練の門が、いま音もなく開こうとしている。





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