【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(11)第2章 弥勒と未来問答 現在の苦悩ー④

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(11)第2章 弥勒と未来問答 現在の苦悩ー④

読了時間(約4分)

(4)現在の苦悩

 霧に包まれた空間は、静寂を極めていた。 空海の胸には弥勒との対話の余韻が残りつつも、同時に新たな葛藤が渦巻いていた。
 未来に成就する慈悲――その真理の響きは確かに胸を震わせた。
だが、彼の眼には飢えに苦しむ人々、涙を流す者たちの姿が焼きついて離れなかった。  

空海は一歩、弥勒に近づいた。
「未来の光が約束されているとしても、いま苦しむ者にとって、その光は遠すぎます。
 今日を生き抜けない命にとって、未来は閉ざされている。
 どうすれば私は、この矛盾と向き合えるのでしょうか……」
 声は震えていたが、迷いではなく切実さが込められていた。

 弥勒は答えず、ただ右の手をかざした。その瞬間、霧が大きく揺れ、光の幕が広がった。
 そこに映し出されたのは、飢えた子どもたちの姿だった。
 骨ばった腕、乾いた唇。母親は必死に胸に抱きながらも、乳は出ず、子は泣く声さえ失っている。
 次の瞬間には戦場が広がった。倒れ伏す兵士、血に濡れた地面、空を覆う黒煙。呻き声が響くが、誰も救う者はいなかった。
 さらに、病に伏す人々の姿が映った。
 腐敗した村の小屋、うめき声、冷たい布団に横たわる人々。彼らの瞳には「生きたい」という渇望があった。  

空海はその光景を目にし、膝が震えた。思わず地に座り込み、合掌した。
「これが……現在の苦悩……」言葉は風に散り、涙が頬を伝った。

 弥勒の声が、静かに空間を満たした。
「あなたが見ているのは幻ではない。人の苦悩は永遠に繰り返される。
 未来に慈悲が成就するのは、これらの苦悩があったからこそだ。
 苦悩なき未来はありえぬ。苦悩こそが、慈悲の土壌となる」
 その言葉は真理であった。だが同時に、冷酷な響きを帯びていた。

 空海は声を震わせた。
「ならば、私たちはただ待つしかないのですか?
 救いが成就するまで……
 無数の命が失われるのを見過ごすしかないのですか!」

 弥勒は静かに微笑んだ。
「未来を待つのではない。未来はすでに、いま芽吹いている。
 人が一瞬でも他者を思うなら、その思いは未来の花へとつながる。
 あなたの祈りも、言葉も、行いも――すべてが未来を呼び込む種となるのだ」

 空海は俯いた。
「私の祈りは小さい。私の力は限られている。
 あまりに小さな種で、荒野にすぐ消えてしまうのではないか……」
 その言葉に応えるように、再び幻視が揺らいだ。
 そこには、幼い子どもに粥を分け与える母親の姿があった。
 兵士が瀕死の仲間を背負い、必死に逃げる姿があった。
 老僧が村の病人の傍らで経を唱える姿もあった。

 弥勒の声が重なった。
「見よ、これらの行いは大きな救いではない。
 だが、種を守る手である。
 慈悲は小さな行為に宿り、それが未来を呼ぶ。
 あなたの力が小さくとも、無駄ではない」

 空海は涙を拭い、立ち上がった。胸に熱いものが広がっていた。
「私は理解しました。
 未来に成就する慈悲は、いまの苦悩と切り離されたものではない。
 苦悩の只中でこそ、慈悲は芽を出す。
 ならば……ならば……私は、小さくとも種を守る者でありたい。
 祈りを行為に変え、行為を未来へつなぐ者でありたい!」

 弥勒は微笑を深め、静かに頷いた。
 その頷きは祝福のようであり、試練を承認する印のようでもあった。
 霧は再び静まり、幻視は消えた。
 残されたのは山中の沈黙。だがその沈黙は、もはや虚しい空白ではなく、未来への胎動を孕んだ沈黙だった。
 空海は胸に手を置き、静かに言った。
「現在の苦悩を抱きながら、未来を信じる。これこそ、私が歩む道だ」
 その言葉は霧に溶け、風となって山を下りていった。

 

つづく…

 

【次回予告】

──沈黙の先に待つ、自己の裏面と対峙する夜。

空海が歩む霊的旅路は、いよいよ〈逆門〉と呼ばれる禁断の領域へと差しかかる。そこは、理性も慈悲も試される深奥——時間の軸がねじれ、自己と非自己の境界が崩れゆく場。

弥勒との邂逅によって照らされた「未来の光」は、果たして現在を超えて導く光明たりえるのか。それとも、空海自身の奥底に眠る“超えられぬ影”を露わにする引き金となるのか。

この節では、空海がその身ひとつで挑む“逆流する問い”が描かれます。
外なる敵ではなく、内なる矛盾と渇望。
正しき道を選んだはずの過去すらが揺らぎ、光と闇が反転するような幻視の中で、空海は何を見いだすのか。

——門は外ではなく、己の中にあった。

開かれるのは未来か、それとも終焉か。

試練の門が、いま音もなく開こうとしている。

【長編連載小説】『こころの座標』外伝:失われた時間の旅(12)
第2章 弥勒と未来問答 逆門の試練ー⑤
2025年12月 3日 21:00 公開

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お寺の住職をしております。 昨今よく耳にするのは、先祖代々の宗派がわからない、菩提寺が地方にあるため何年も供養をしたことが無い等でお困りの方が多くいらっしゃいます。 ご法事・供養でお悩みの方、水子供養・お祓いなどお気軽にお寺にご相談下さい。