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(5)逆問の試練
霧はゆるやかに流れ、空海と弥勒を包み込んでいた。
先ほどまでの幻視は消え去り、再び静かな山中の空間へと戻っていた。しかし、空海の胸にはなお揺らぎが残っていた。弥勒が示した未来の慈悲、現在の苦悩の意味……それらを理解したつもりでいても、内側には解けきらない硬い石のような違和感が沈んでいた。
未来に成就する慈悲は理解した。
現在の苦悩を抱えながらも、小さな種を守り育てることの意味も、確かに受け止めた。
――しかし、それだけでは足りないのではないか。
その「足りなさ」は、空海が長年抱えてきた葛藤の根に触れるものだった。見えない誰かのために祈る。それは尊い。しかし、どれほど祈っても人々の飢えや争いはなくならない。祈りは確かに灯火だが、今の暗闇をすべて照らせるわけではない。
彼自身の心が、それを知っていた。
弥勒はその迷いを察したかのように、ゆっくりと空海に向かって歩を進めた。光の衣が揺れるたび、無数の花びらのような輝きが霧の中に散り、それらが空気そのものを浄化するように漂っていった。まるで、ひとつ呼吸するごとに世界の密度が変わっていくようだった。
やがて弥勒は立ち止まり、静かに告げた。
「空海よ、そなたは問うてばかりだ。
しかし、問うだけでは道は開けぬ。
今度は、そなた自身が答える番だ。」
その声音は柔らかくも、否応なく重みを持って胸に響いた。大地がその声に共振し、足元の小石がわずかに震えたようにも感じられた。
弥勒は空海をじっと見据えた。
その眼差しには、あらゆる時代、あらゆる命の可能性が宿っていた。光でも影でもない、“ただそこにある”存在としてのまなざし。
そして問うた。
「そなたは、何をもって人を救うのか。
未来の慈悲を待つのではなく、いまこの瞬間、そなた自身は何を差し出すのか。」
空海の呼吸が止まった。胸の奥に鋭い刃を突きつけられたようだった。問いそのものが、彼の内側のもっとも深い部分を切り開くようだった。
「私は……祈りを差し出します。修法を行い、真言を唱えます。
しかし、それがどれほどの力になるのか、私は確信を持てません。」
その答えは、出家以来初めて吐いた弱音に近かった。
弥勒は首を横に振った。
その動きは静かだが、霧がひと息に揺れるほどの影響を持っていた。
「祈りも行である。しかしそれだけではない。
そなた自身の“生”が、人々に何を与えるのか。
その問いを避けてはならぬ。
そなたはその答えを持たねばならぬ。」
その言葉は、単なる教えではなく試練として降りかかった。
空海は目を閉じ、深い沈黙に沈んだ。
若き日に唐に渡り、密教を学び、師より託された経と法。
帰国してから、人々の苦悩に応じるべく祈祷を重ね、言葉を尽くしてきた。しかし、どれほど祈っても飢えが消えることはなかった。どれほど教えを説いても、戦が止むことはなかった。
それでも僧である以上、祈ることをやめることはできない。
この矛盾が、彼を長く苦しめていた。
心の中に声が響いた。
――「お前の行いは無力ではないか?」
別の声が答えた。
――「それでも、祈りなくして歩むことはできぬ。」
葛藤は重なり合い、胸の奥でせめぎあった。
善悪でも正誤でもない、ただひとつの「痛み」が心の中心にあった。
そのとき、霧が再び揺らぎ、彼の眼前に曼荼羅が広がった。
数え切れぬほどの仏と菩薩が配置され、互いに光を放ち合い、全体が一つの調和を形作っていた。無数の色が脈動し、曼荼羅は宇宙の呼吸そのものであった。
中心には大日如来の姿があり、その光は限りなく広がっていた。
しかし、その曼荼羅はすぐに歪んだ。
光の一部が暗闇に覆われ、菩薩たちの顔が苦悩に歪んでいった。中心の光もかすみ、曼荼羅全体が揺らぎ始めた。
「……なぜ……?」
空海の喉から思わず声が漏れた。
弥勒の声が、その幻視に重なった。
「空海よ、曼荼羅は完成された図ではない。
そなたが何を為すかによって、曼荼羅は光を増すこともあれば、闇に沈むこともある。
そなた自身の行いが、曼荼羅の一角を支えるのだ。」
空海は息を呑んだ。
曼荼羅が静かに揺れ、闇と光のせめぎ合いが続いた。
その中心にいる大日如来でさえ、揺らいで見えた。
――これは、私の心なのか。
――いや、人々の心か。
――それとも、世界そのものか。
理解を超えた直感が、胸を貫いた。
しばらく沈黙が続いたのち、空海はようやく言葉を紡いだ。
「私にできることは……祈ること、書き記すこと、そして人の傍らに立つこと。
小さな行為であっても、曼荼羅の一角を支えるならば……私はその責を担います。」
その声は震えていたが、確かな決意があった。
弥勒は微笑を深め、柔らかく頷いた。
「それでよい。
未来は遠い約束ではない。
いま為される小さな行いが、曼荼羅を完成へと導く。
そなたの行いは、未来を呼ぶ声となる。」
曼荼羅の幻視は静かに消え、
再び山中の霧が戻った。
空海は深く息を吐き、胸に手を置いた。
心臓の鼓動がはっきりと感じられた。
それは彼自身が差し出すことのできる唯一の証――“生きているという証”だった。
「私はまだ未熟です。
しかし、私の生そのものを差し出します。
未来の花を信じ、いまここに根を張る者として。」
その言葉は誓いとなり、霧に溶けていった。
弥勒は何も言わなかった。
ただ静かな眼差しを向けていた。
その眼差しは「試練を受け入れた者への祝福」であり、
同時に「さらなる問いへの予兆」でもあった。
霧が揺れ、微かな風が吹いた。
空海はその風の中に、弥勒からの最後の問いを感じ取っていた。
——そなたの生は、誰の光となるのか。
——そなたの一歩は、誰の未来を照らすのか。
空海は静かに目を閉じ、その問いを胸に刻んだ。
やがて、霧が彼の肩を包み、世界は沈黙へと戻っていった。
その沈黙の中で、空海の胸には、小さな光が確かに灯っていた。
つづく…
【次回予告】
語るべき言葉をすべて失ったとき、人は何に身を委ねるのか――。
霧深い山中で、空海は弥勒の微笑を越えた「問いの沈黙」と出会う。
慈悲の成就も、未来への祈りも、そのすべてが終わったかのような静寂。
だが、その沈黙は虚無ではない。そこには、言葉にならぬ悲しみと、まだかすかに灯る希望の残り火があった。
涙は理性を越えてこぼれ落ちる。
沈黙は魂に語りかける。
空海は、何も語らぬ弥勒の背に、時を超えた慈悲の応答を感じ取る。
彼は理解する――この沈黙こそが、すべての問いに対する応えなのだと。
それは、語り尽くせぬ未来の記憶。
そして、魂が帰る場所を示す、光なき涙の祈り。









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