【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(12)第2章 弥勒と未来問答 逆問の試練ー⑤

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(12)第2章 弥勒と未来問答 逆問の試練ー⑤

読了時間(約6分)

(5)逆問の試練

 霧はゆるやかに流れ、空海と弥勒を包み込んでいた。
 先ほどまでの幻視は消え去り、再び静かな山中の空間へと戻っていた。しかし、空海の胸にはなお揺らぎが残っていた。弥勒が示した未来の慈悲、現在の苦悩の意味……それらを理解したつもりでいても、内側には解けきらない硬い石のような違和感が沈んでいた。

 未来に成就する慈悲は理解した。
 現在の苦悩を抱えながらも、小さな種を守り育てることの意味も、確かに受け止めた。

 ――しかし、それだけでは足りないのではないか。

 その「足りなさ」は、空海が長年抱えてきた葛藤の根に触れるものだった。見えない誰かのために祈る。それは尊い。しかし、どれほど祈っても人々の飢えや争いはなくならない。祈りは確かに灯火だが、今の暗闇をすべて照らせるわけではない。

 彼自身の心が、それを知っていた。

 弥勒はその迷いを察したかのように、ゆっくりと空海に向かって歩を進めた。光の衣が揺れるたび、無数の花びらのような輝きが霧の中に散り、それらが空気そのものを浄化するように漂っていった。まるで、ひとつ呼吸するごとに世界の密度が変わっていくようだった。

 やがて弥勒は立ち止まり、静かに告げた。

「空海よ、そなたは問うてばかりだ。
 しかし、問うだけでは道は開けぬ。
 今度は、そなた自身が答える番だ。」

 その声音は柔らかくも、否応なく重みを持って胸に響いた。大地がその声に共振し、足元の小石がわずかに震えたようにも感じられた。

 弥勒は空海をじっと見据えた。
 その眼差しには、あらゆる時代、あらゆる命の可能性が宿っていた。光でも影でもない、“ただそこにある”存在としてのまなざし。

 そして問うた。

「そなたは、何をもって人を救うのか。
 未来の慈悲を待つのではなく、いまこの瞬間、そなた自身は何を差し出すのか。」

 空海の呼吸が止まった。胸の奥に鋭い刃を突きつけられたようだった。問いそのものが、彼の内側のもっとも深い部分を切り開くようだった。

「私は……祈りを差し出します。修法を行い、真言を唱えます。
 しかし、それがどれほどの力になるのか、私は確信を持てません。」

 その答えは、出家以来初めて吐いた弱音に近かった。

 弥勒は首を横に振った。
 その動きは静かだが、霧がひと息に揺れるほどの影響を持っていた。

「祈りも行である。しかしそれだけではない。
 そなた自身の“生”が、人々に何を与えるのか。
 その問いを避けてはならぬ。
 そなたはその答えを持たねばならぬ。」

 その言葉は、単なる教えではなく試練として降りかかった。

 空海は目を閉じ、深い沈黙に沈んだ。
 若き日に唐に渡り、密教を学び、師より託された経と法。
 帰国してから、人々の苦悩に応じるべく祈祷を重ね、言葉を尽くしてきた。しかし、どれほど祈っても飢えが消えることはなかった。どれほど教えを説いても、戦が止むことはなかった。

 それでも僧である以上、祈ることをやめることはできない。
 この矛盾が、彼を長く苦しめていた。

 心の中に声が響いた。

 ――「お前の行いは無力ではないか?」

 別の声が答えた。

 ――「それでも、祈りなくして歩むことはできぬ。」

 葛藤は重なり合い、胸の奥でせめぎあった。
 善悪でも正誤でもない、ただひとつの「痛み」が心の中心にあった。

 そのとき、霧が再び揺らぎ、彼の眼前に曼荼羅が広がった。

 数え切れぬほどの仏と菩薩が配置され、互いに光を放ち合い、全体が一つの調和を形作っていた。無数の色が脈動し、曼荼羅は宇宙の呼吸そのものであった。
 中心には大日如来の姿があり、その光は限りなく広がっていた。

 しかし、その曼荼羅はすぐに歪んだ。
 光の一部が暗闇に覆われ、菩薩たちの顔が苦悩に歪んでいった。中心の光もかすみ、曼荼羅全体が揺らぎ始めた。

「……なぜ……?」
 空海の喉から思わず声が漏れた。

 弥勒の声が、その幻視に重なった。

「空海よ、曼荼羅は完成された図ではない。
 そなたが何を為すかによって、曼荼羅は光を増すこともあれば、闇に沈むこともある。
 そなた自身の行いが、曼荼羅の一角を支えるのだ。」

 空海は息を呑んだ。
 曼荼羅が静かに揺れ、闇と光のせめぎ合いが続いた。
 その中心にいる大日如来でさえ、揺らいで見えた。

 ――これは、私の心なのか。
 ――いや、人々の心か。
 ――それとも、世界そのものか。

 理解を超えた直感が、胸を貫いた。

 しばらく沈黙が続いたのち、空海はようやく言葉を紡いだ。

「私にできることは……祈ること、書き記すこと、そして人の傍らに立つこと。
 小さな行為であっても、曼荼羅の一角を支えるならば……私はその責を担います。」

 その声は震えていたが、確かな決意があった。

 弥勒は微笑を深め、柔らかく頷いた。

「それでよい。
 未来は遠い約束ではない。
 いま為される小さな行いが、曼荼羅を完成へと導く。
 そなたの行いは、未来を呼ぶ声となる。」

 曼荼羅の幻視は静かに消え、
 再び山中の霧が戻った。

 空海は深く息を吐き、胸に手を置いた。
 心臓の鼓動がはっきりと感じられた。
 それは彼自身が差し出すことのできる唯一の証――“生きているという証”だった。

「私はまだ未熟です。
 しかし、私の生そのものを差し出します。
 未来の花を信じ、いまここに根を張る者として。」

 その言葉は誓いとなり、霧に溶けていった。

 弥勒は何も言わなかった。
 ただ静かな眼差しを向けていた。
 その眼差しは「試練を受け入れた者への祝福」であり、
 同時に「さらなる問いへの予兆」でもあった。

 霧が揺れ、微かな風が吹いた。
 空海はその風の中に、弥勒からの最後の問いを感じ取っていた。

 ——そなたの生は、誰の光となるのか。
 ——そなたの一歩は、誰の未来を照らすのか。

 空海は静かに目を閉じ、その問いを胸に刻んだ。

 やがて、霧が彼の肩を包み、世界は沈黙へと戻っていった。
 その沈黙の中で、空海の胸には、小さな光が確かに灯っていた。

つづく…

【次回予告】

語るべき言葉をすべて失ったとき、人は何に身を委ねるのか――。

霧深い山中で、空海は弥勒の微笑を越えた「問いの沈黙」と出会う。

慈悲の成就も、未来への祈りも、そのすべてが終わったかのような静寂。

だが、その沈黙は虚無ではない。そこには、言葉にならぬ悲しみと、まだかすかに灯る希望の残り火があった。

涙は理性を越えてこぼれ落ちる。

沈黙は魂に語りかける。

空海は、何も語らぬ弥勒の背に、時を超えた慈悲の応答を感じ取る。

彼は理解する――この沈黙こそが、すべての問いに対する応えなのだと。

それは、語り尽くせぬ未来の記憶。

そして、魂が帰る場所を示す、光なき涙の祈り。

【長編連載小説】 『こころの座標』 (12)
第2章 弥勒との未来問答 沈黙と涙ー⑥
2025年12月10日 21:00 公開

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お寺の住職をしております。 昨今よく耳にするのは、先祖代々の宗派がわからない、菩提寺が地方にあるため何年も供養をしたことが無い等でお困りの方が多くいらっしゃいます。 ご法事・供養でお悩みの方、水子供養・お祓いなどお気軽にお寺にご相談下さい。