【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (8) 第2章 山中の霊気—①

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (8) 第2章 山中の霊気—①

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(1)山中の霊気

 山道は、やがて一本の糸のように細くなった。
 両側の木々は樹齢数百年を超える老樹であり、その幹には苔が深く張りつき、地を這う根はまるで山そのものの血管のように絡み合って霧がその上を流れ、やがて空海の裾を撫でた。
 湿った空気の中には、古い香木が燃えたような微かな香が混じっている。
 修行中に何度も嗅いだ伽羅の香り。けれど、今は人の手によるものではなく、大地そのものが発しているような自然の息だった。

 彼は静かに歩いていた。杖の先が石を打つ音が、霧の中で何重にも反響する。音が時間を計る唯一の尺度だった。陽の光も月の影も、ここでは意味を失っている。
 山は自らの呼吸に合わせて、昼も夜も一体となっていた。

 その中を歩きながら、空海はふと思った――この山そのものが、巨大な生命のようだと。霧はその吐息、風は脈動、そして岩の軋みは、古より響く心臓の鼓動。人は小さな存在にすぎない。だがその小さき命にも、この山の鼓動は確かに流れ込んでいる。

 足元の土がぬかるみ始めた。彼は一度立ち止まり、掌を合わせた。
息を整えると、胸の奥で静かな振動が広がる。経を唱えるでもなく、ただ世界と一緒に呼吸する。
その呼吸の中に、何かがあった――。

 霧の中、遠くで光が瞬いた。
 星かと思ったが、空ではなく、地の底から生まれている。
 薄白い光が、まるで大地の深部から滲み出してくるようだった。
 彼は歩みを進めた。
 湿った苔の上を踏むたびに、柔らかな音が響く。
 やがて霧が揺れ、前方に淡い円が浮かび上がった。

 その円の中心に、ひとつの蓮の花があった。
 水もない場所に、光を孕んだ花弁がゆっくりと開いている。
 近づくほどに、花の周囲の空気がわずかに震えた。
 まるで花そのものが呼吸しているようだった。

 空海は胸の鼓動を感じながら膝をついた。
 その瞬間、山の空気が変わった。
 風が止み、虫の声も消えた。世界全体が息を潜めて、何かを待っている。

 ――時間が、止まった。

 霧が淡く光り、周囲が青白く染まり始めた。
 花弁の中心から、金色の粒が浮かび上がる。
 ひとつ、またひとつと空へ舞い、彼の周りをゆるやかに巡った。
 その光は言葉を持たぬ祈りのようであり、見る者の心に直接触れるようだった。

 やがて、光は形を結び始めた。人の姿。
 輪郭は淡く、衣は風に溶ける霧そのもののようだった。
 その存在が立ち上がった瞬間、空気が静電のように震えた。

 それは――弥勒菩薩であった。

 空海は、目の前の光景に言葉を失った。
 衣は七色の光を含み、見る角度によって色が変わった。
 白銀、桃、緑、そして淡い金。いずれも単色ではなく、すべての色を内包しているようだった。
 顔には微笑があった。だがその微笑は、人間の温かさを超え、永遠に至る静謐せいひつの表情であった。

 空海は震える声で呟いた。
「弥勒……未来の仏よ」

 その名を呼んだ瞬間、森が応えた。
 木々の葉が揺れ、岩が鳴り、遠くの滝が咆哮のように音を立てた。
 風が吹き、霧が舞い、無数の光が宙を満たした。
 山そのものが、未来の名に呼応していた。

 だが弥勒は語らない。ただ微笑を湛えたまま、空海を見つめていた。
その眼差しには、時間の始まりと終わりのすべてが映っているようだった。
 空海はその視線を受け止めきれず、瞼を閉じた。だが閉じた瞼の裏には、なお光があった。

 その光は、音を放っていた。耳ではなく、胸で聴く音。

 ――未来は遠くにあるのではない。いま、そなたの歩む地に宿っている。

 それは声ではなく、心に直接届く響きだった。

 空海の頬を、涙が伝った。修行を重ね、理を尽くしても、なお届かなかった「未来」の気配。それが今、目の前に在る。
 彼は静かに合掌した。

「私の祈りは小さい。しかし、この一瞬に全てを捧げます。
いまという時が、未来を生むならば――私はこの呼吸の中に生きよう」

 風が再び起こった。花弁が舞い、霧が渦を描く。
 弥勒の姿は次第に淡くなり、光の粒へと還っていく。
 その粒が空海の周囲を巡り、やがて胸の奥へと吸い込まれた。

 光が消えたあと、彼はひとり残された。だが、孤独ではなかった。
胸の中に残った光の余韻が、彼自身の呼吸と重なっていた。
 鳥が鳴いた。夜明けの気配が近づいている。霧の奥で空が薄明るくなり始めていた。

 空海は立ち上がった。足元の苔が光を受けて淡く輝いている。山の空気は澄み、木々の枝には朝露が光っていた。
 彼は深く息を吸い、胸に手を当てた。

 ――未来は待つものではない。いまこの身の中で、生まれ続けている。

 遠くの空に、ひと筋の光が走った。
 それは夜明けではなく、弥勒が去ったあとに残した「約束の残光」だった。

 空海はその光に向かって一礼した。
「未来の仏よ、あなたの微笑は私の内に残りました。
私はこの山を降り、人々の中でその光を分かち合いましょう」

 彼の声は風に溶け、森を抜け、谷を越えて響いた。
 静寂の中に、山の心臓の鼓動が確かに聞こえた。

 そして――
 新しい一日が、彼の足元に広がっていた。

つづく…

【次回予告】
風の音すら聴こえない静寂のなか、
ひとつの微笑が、生きもののように場を包む。

それは声なき声、語られぬ啓示。
未来仏――
時を超えた慈悲の気配が、ふたりの心にそっと触れる。

空海は、そのまなざしの奥に、
「救いとは、遠くから来るものではない」という光を見いだす。
デカルトは、“答えなき微笑”の前に思考を解き、
理性の奥で揺らぐ温かさに、初めて胸を委ねる。

語らぬ者から届く、もっとも深い理解。
それは未来を変える宣言ではなく、
未来に向けて“祈りを預ける”という、静かな信。

次回、祈りと理性のまなざしが交わるとき、
「微笑」がひとつの座標として、世界に刻まれる。
未来はまだ来ていない――けれど、すでにここに在る。

【長編連載小説】 『こころの座標』(9)外伝:失われた時間の旅
第2章 弥勒との未来問答 未来仏の微笑ー②
2025年11月12日 21:00 公開

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