【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (7) 第1章 光の兆し—⑥

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (7) 第1章 光の兆し—⑥

📖読了時間 約3分〜5分

(6)光の兆し

 洞窟の出口に立ったデカルトの目の前には、まだ夜の帳が世界を包んでいた。
 空は深い群青に染まり、星々はその光を弱めながらも、なお冷たく瞬いていた。
 頬をかすめる空気には湿り気があり、長い沈黙のなかで吸い込まれた闇の記憶が、まだ体から抜けきっていないようだった。

 一歩。石から土へ、土から砂礫へと、足元の感触が変わっていく。靴底が触れるたび、大地はわずかに振動し、それが彼自身の存在を確かめるようでもあった。
 だが、その音すらもすぐに夜の静寂に吸い込まれ、あとには沈黙だけが残った。

 彼は歩く。足の裏で確かめるように、一歩ずつ、慎重に。
 そして心の中では、洞窟で交わされた数々の言葉がまだ反芻されていた。
 問い、対話、沈黙。自分が誰であり、何を求めていたのか――その根源に触れた余韻が、彼の内側にかすかに残っていた。

 やがて東の空に、ほんのわずかな変化が訪れた。最初は気づかないほどの色の濃淡だったが、それは確実に夜の終わりを告げるものであった。
 群青が薄れ、鉛のような灰色が空を横切り、次第に紫がその縁を滲ませていく。
 そして橙色の光が、まるで地平線の奥から誰かがそっと灯した小さな火のように、やさしく、静かに広がっていった。

 デカルトは足を止めた。呼吸を整え、静かにその光を見つめる。朝はまだ完全には来ていなかったが、確かに「兆し」があった。
 闇を裂くように始まるものではなく、闇を抱きながら少しずつ広がる、そうした優しさに満ちた始まりが、今この瞬間にあった。

「――暗闇があったからこそ、この光を感じる。
 ――孤独があったからこそ、問いは生まれる。
 ……ならば私は、 の孤独を背負って歩むしかない」

 その独白は、夜明けの空へと滲み、風に溶けた。返事はなかった。
 だが、言葉を外へ解き放ったこと自体が、彼の心に静かな余白をもたらした。
 それは無言の対話。誰もいない世界との、あるいは彼自身との応答なき呼びかけだった。

 ふと、遠くに小さな灯が揺れているのが見えた。風に揺らぐ炎のような光が、いくつも列をなして、こちらに近づいてくる。やがて複数の人影が、松明を掲げて黙々と歩く姿となって現れた。

 彼らの衣は粗末で、顔はほとんど見えなかった。だが、炎の明滅がその輪郭を赤く照らし、足音は乾いた大地に一定のリズムを刻んでいた。
 彼らはデカルトの存在に気づくと、互いに顔を向けて頷き合い、言葉を交わさずに通り過ぎていった。
 その一瞬の交差はあまりに静かだったが、なぜか、胸の奥にあたたかなものが宿った。

「私は一人である。だが、一人で歩いているのは私だけではない!」

 その気づきは、孤独を消し去ったわけではなかった。だが、孤独の底にもう一つの層が生まれたような感覚があった。誰もが問いを抱え、答えなき道を歩んでいる。言葉にされずとも、その足音が、歩みそのものが語っていた。

 空の色は刻一刻と変化し、霧は山裾からゆっくりと上がっていった。
 鳥の声がどこからともなく聞こえ始め、風には青草と湿った土の匂いが混ざっていた。
 夜に隠されていた生命の徴が、まるで合図でもあったかのように姿を現し始めた。
 虫の羽音、水の流れ。見えないものたちの動きが、静かな地鳴りのように彼の周囲を包んでいく。

 デカルトは胸に手を置いた。心臓の鼓動を感じながら、深く息を吸い込む。その肺の奥にまで入り込む空気には、過去を背負い、未来へ向かう存在としての〈私〉を、再び抱きしめるような、どこか懐かしい清冽さがあった。。

「問いこそが、私を歩ませる。
 答えはなくとも、問いが尽きぬ限り……私は立ち止まらない」

 その言葉はもはや独白ではなかった。
 彼自身に向けた宣言であり、歩みの約束であった。

 太陽の光が、ようやく荒野を照らし始めた。長い影が彼の背後に伸びる。
 だがその影すら、もはや彼の歩みを遮るものではなかった。
 前方には、新たな道が、霧の向こうからゆっくりと姿を現しつつあった。

 どこへ続くかは分からない。だが確かに、その道は存在している。
 まだ誰の足跡も刻まれていない、その白紙のような大地の上に。

 デカルトは歩を進めながら、遠い未来に出会うはずの誰かの姿を、ふと心に描いた。

 光に包まれた曼荼羅の門。その前に、静かに佇む一人の僧。その存在はまだ記憶の中にはない。だが、それは確かに「再会」の予兆だった。

 そして、その火は、小さくとも確かに彼の心に灯っていた。

つづく…

【次回予告】

深い霧と沈黙の中を歩き続けた旅路に、ついに微かな光が、ひとしずく、差し込む。

それは、燃える松明のような熱ではなく――蓮の花が夜明け前にふと開くような、静かな、けれど確かな“未来の徴”だった。

空海は、霊気の宿る山の奥で、名もなき風景に祈りの気配を感じ取る。

そして現れるのは、声を持たぬ存在、言葉を超えた微笑――弥勒の幻影と、未来の呼びかけ。

「未来は、遠くにあるのではない。
 それは、あなたのこの呼吸の中にある。」

耳ではなく、心に響くその言葉が、空海の魂を深く震わせる。

次回、沈黙の奥で交わされる“未来との契り”。

光の粒はやがて空へと昇り、旅は新たな祈りを胸に、再び歩み出す――。

【長編連載小説】 『こころの座標』(8)
第2章 弥勒の未来問答ー①
2025年11月5日 21:00 公開

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