【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(17)第3章 戦場の影と幻影の師 血に染まる大地―③

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(17)第3章 戦場の影と幻影の師 血に染まる大地―③

読了時間(約10分)

(3)理性が沈黙する場所

 戦場を歩きながら、デカルトは気づいていた。
 自分の内側で、何かが静かに止まり始めている。

 それは恐怖ではなかった。
 絶望でもない。
 ましてや諦めではない。

 ――思考そのものが、言葉を失い始めている。

 これまで、彼は世界を「理解できるもの」として扱ってきた。
 疑い、分解し、再構成する。
 理性とは、混沌を秩序へ変換する装置であり、人間が世界に対して持ちうる最も確かな武器だと信じてきた。

 だが、いま彼の前に広がる光景は、その装置の外側にあった。

 死体の並び。
 まだ温もりを残す肉体。
 泣き声を押し殺す者たちの背中。
 そして、問いを残したまま閉じられた無数の瞳。

 それらは「分析」を拒んでいた。
 因果を語るには、あまりにも直接的で、あまりにも重い。

 デカルトは足を止めた。
 理由はなかった。
 ただ、これ以上歩きながら考えることができなかった。

 彼は周囲を見回した。
 ここには、祈りもなければ、説法もない。
 あるのは、結果だけだ。

 戦争という名の行為が残した、純粋な結果。

「……ここでは……」

 口を開いた瞬間、言葉が続かなかった。
 文章にならない。
 概念に収まらない。

 彼は、はじめて自覚した。
 理性は万能ではない。
 いや――万能であろうとした理性こそが、ここでは沈黙を強いられている。

 沈黙は、敗北ではなかった。
 それは、理性が初めて「自分の限界」を知った瞬間だった。

 そのとき、遠くで金属音がした。
 誰かが武器を落とした音。
 あるいは、意図的に捨てた音。

 デカルトは、その音の方向へ歩き出した。
 問いを探すためではない。
 問いを「考えない」場所が、どこにあるのかを確かめるために。

 霧が、再び濃くなり始めていた。

 戦場の影の中で、
 理性が、言葉を失う場所へと――。

 霧は、いつの間にか濃さを増していた。
 視界が狭まるにつれ、戦場の輪郭は溶け、個々の出来事が互いに切り離されていく。
 死体の列も、倒れた武器も、泣き声も――それぞれが孤立した断片となり、全体像を結ばなくなっていた。

 デカルトは、その変化に気づいていた。
 これは自然現象ではない。
 自分の内側で、世界を「まとめ上げる力」が弱まっている。

 理性は、本来、散らばった事実を一つの構造へと束ねる。
 原因と結果を結び、必然の線を引く。
 だが今、その線が引けない。
 引こうとすると、線の先で何かが拒絶する。

 ――これ以上、意味づけるな。

 そう言われているような感覚だった。

 彼は、崩れた石垣のそばに腰を下ろした。
 冷たい石に触れた瞬間、思考がさらに鈍くなる。
 冷えは、身体だけでなく、概念にも及んでいた。

 ここでは、問いすら重すぎる。
 第2節で引き受けた問い――
「それでも人は人であり続けられるのか」
 その問いさえ、いまは言葉として持ち続けることができなかった。

 代わりに浮かんでくるのは、断片的な映像だった。
 兵士の震える手。
 閉じられた瞼。
 剣を突き立てた土の感触。

 それらは、思想ではなく、記憶でもなく、ただの“残像”だった。
 理性が沈黙したとき、世界はこうして像として残るのだと、デカルトは初めて知った。

 そのとき、不意に気配が生じた。
 背後ではない。
 前方でもない。
 思考の「内側」に、静かな圧が加わる。

 声はなかった。
 言葉もなかった。

 だが、そこには確かに「誰か」がいた。

 幻影の師――
 これまでのように姿を持って現れることはなかった。
 輪郭も、視線もない。
 ただ、沈黙そのものが、師の形を取っている。

 デカルトは、その沈黙に抗おうとしなかった。
 抗う言葉が、もう残っていなかったからだ。

 ――考えよ。

 かつて、確かにそう言われた。
 だが、今は違う。

 ――考えるな。

 そう命じられているわけでもない。
 ただ、考えることが、ここでは不可能なのだ。

 彼は目を閉じた。
 目を閉じることで、ようやく世界が静まった。
 外界の像が消え、内側のざわめきも薄れていく。

 沈黙は、恐ろしいものではなかった。
 それは、理性が一時的に武器を下ろし、
 世界をそのまま受け取ろうとする姿勢だった。

 デカルトは、理解した。
 ここは、理性が敗北する場所ではない。
 理性が「話すのをやめる」場所なのだ。

 霧の中で、何かがわずかに動いた。
 それが人か、影か、ただの錯覚かは分からない。

 だが彼は、追わなかった。
 追う理由が、もはや存在しなかった。

 理性が沈黙する場所――
 そこでは、問いも答えも、同じ重さで地面に置かれていた。

 目を閉じているあいだ、時間の感覚は薄れていった。
 秒も分も意味を失い、ただ「留まっている」という感触だけが残る。
 デカルトは、これほど長く思考を手放したことがなかった。

 考えることをやめる――
 それは彼にとって、怠慢でも逃避でもなく、ほとんど恐怖に近い行為だった。
 思考こそが自分の存在を支えている。
 疑い、整理し、確証へ至る過程こそが、自己である。
 その前提が、いま静かに崩れている。

 霧の中で、温度が変わった。
 冷えでも暖かさでもない。
 境界が消えていくような、均質な感覚。
 外と内の区別が曖昧になり、自分が「ここにいる」という確信さえ、次第に薄れていった。

 そのとき、沈黙の奥で、何かが「在った」。

 姿はない。
 声もない。
 だが、確かに“在り方”として、そこに存在している。

 ――これが、師か。

 そう思った瞬間、思考がまた動き出しそうになり、デカルトはそれを抑えた。
 名づければ、再び距離が生まれる。
 ここでは、距離を保つこと自体が、誤りなのかもしれない。

 沈黙は、圧力を持っていた。
 問いを突きつける圧力ではない。
 むしろ、問いを剥がしていく圧力だった。

 兵士の問い。
 戦場の死。
 剣を突き立てた行為。

 それらが、一つずつ、意味を失っていく。
 否定されたのではない。
 ただ、「説明される必要がなくなった」のだ。

 デカルトは、膝の上に置いた手を見つめた。
 血に染まった指。
 震えは、すでに止まっている。

 理性は、ここでは何も足さない。
 何も引かない。
 ただ、沈黙を受け入れるだけだ。

 その沈黙の中で、師は“教えなかった”。

 言葉を与えなかった。
 問いも、答えも、命令もなかった。
 ただ、共に在った。

 デカルトは理解し始めていた。
 この節目で起きていることは、哲学的な転換ではない。
 倫理的な結論でもない。
 もっと原初的な、存在の姿勢の変化だった。

 ――考えなくても、世界は崩れない。
 ――説明できなくても、現実は消えない。

 その事実が、彼の胸の奥で静かに定着していく。

 霧が、ゆっくりと流れた。
 その流れに合わせて、沈黙もまた動いた。
 固定された空白ではなく、呼吸する空間として。

 幻影の師は、去らなかった。
 だが、留まりもしなかった。

 「在り続ける」ことと「そこに留まる」ことは、同じではない。
 その違いが、言葉にならないまま、身体に染み込んでいった。

 デカルトは、目を開いた。

 戦場の輪郭が、再び浮かび上がる。
 死体。
 武器。
 霧。

 だが、それらはもう「説明すべき対象」ではなかった。

 理性が沈黙する場所――
 そこは、理性が失われた場所ではない。
 理性が、世界の前で一度、膝を折った場所だった。

 霧が、ゆっくりと薄れていった。
 それは晴れるというより、世界が再び輪郭を取り戻していく過程だった。
 沈黙は破られなかった。
 ただ、沈黙の質が変わった。

 デカルトは立ち上がった。
 身体は重く、足元はまだ不安定だったが、立つという行為そのものが、ひとつの決断のように感じられた。
 思考を再開するためではない。
 沈黙を携えたまま、再び歩くために。

 彼は、戦場を見渡した。
 ここにあるものは、変わっていない。
 死者の数も、破壊の規模も、戦の意味も。
 だが、彼の“向き合い方”だけが、静かに変化していた。

 これまでは、理解しようとして見ていた。
 理解できないものを、欠陥や例外として処理しようとしていた。
 だが今は違う。
 理解できないまま、見続けるという選択肢が、はじめて現実のものとして立ち上がっていた。

 それは、諦めではなかった。
 思考の放棄でもない。
 理性が、自らの限界を知った上で、それでも世界に留まろうとする態度だった。

 遠くで、誰かが名を呼ぶ声がした。
 生存者を探す声。
 応答のない名を、何度も繰り返す声。

 デカルトは、その声の方向へ歩き出した。
 助けるためではない。
 答えを与えるためでもない。
 ただ、“共に在る”ために。

 その歩みの中で、彼は気づいた。
 理性は、沈黙の後にこそ、本当の役割を取り戻すのかもしれない。
 沈黙によって世界を受け取り、
 その上で、必要なときにだけ言葉を差し出す。

 沈黙のない理性は、支配になる。
 理性のない沈黙は、逃避になる。
 そのあいだの、極めて細い均衡線の上に、いま自分は立っている。

 足元で、小石が転がった。
 彼はそれを拾い、しばらく掌の中で転がした。
 冷たい。
 だが確かに存在している。

「……分からない」

 デカルトは、声に出してそう言った。
 それは告白ではなく、宣言だった。
 分からないことを、分からないまま引き受けるという宣言。

 その瞬間、胸の奥で、何かが静かに整った。
 問いは消えていない。
 だが、問いに押し潰されることもなくなっていた。

 彼は小石を地面に戻し、再び歩き出した。
 霧の向こうに、人影が見える。
 次の生者か、次の死者か、それは分からない。

 それでも、足は止まらなかった。

 理性が沈黙する場所――
 それは、理性が終わる場所ではない。
 理性が、人の高さへ降りてくる地点だった。

 沈黙を抱えたまま、
 問いを手放さぬまま、
 それでも、前へ。

 デカルトは、戦場の影の中を歩き続けた。
 言葉を急がず、答えを急がず。
 沈黙とともに。

 
つづく…

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