【長編連載小説】 『こころの座標』 (18) 第7章 曼荼羅への歩み―②

小説『こころの座標』第七章ー②

(2)曼荼羅の門(後編)

 足を踏み出した先で、床板の響きが変わった。低く長い、洞窟の奥へ吸い込まれていくような音。
 視界の奥、曼荼羅の色面がわずかに膨らみ、遠近の感覚が反転する。平面に見えたものが、からだの内側へと沈んでいく階段に変わり、逆に自分の背後の空間は、薄い紙のように平坦になっていく。

「怖れることはありません」
 空海の声が、一定の間まを保ちながら届く。
「いまあなたが経験しているのは、視覚の秩序ではなく、関係の秩序です」

 デカルトは片手を胸に当て、脈の落ち着きを確かめた。鼓動は速いが乱れてはいない。
 もう一歩踏み出すと、曼荼羅の一隅で、金剛杵を持つ尊の眼差しがこちらへ向く。絵具の粒立ちは見えるのに、その視線は人のもののように生々しい。
 否、それは「視線」ではない。網の目の一点が、別の一点を迎え入れる時に生じる応答──かすかな張力だ。

「私は、見られているのですか」

「あなたが“見ている”のと同じ仕方で」
 空海は袖を整えながら続けた。
「見る、見られるは、ここでは二つに分かれていません」

 堂内の香煙が細い螺旋を描き、曼荼羅の色を撫でる。
 朱の上では温い霞、群青の上では冷たい霧になる。あらゆる色が、それぞれ固有の手触りを持ち、視覚のはずが触覚の記憶を呼び覚ます。

 デカルトは、視線を一点に固定するのをやめ、緩やかな輪を描くように撫でる。
 中心と思しき円座、そこから外環へ、さらに対角に渡る金剛界の線。
 彼はふと、学僧が示した幾つかの印いんに目を留める。指は結ばれ、ほどかれ、また結ばれる。
 呼吸と指先のわずかな動きが、曼荼羅の図形を音のない言語でなぞっている。

「その印は、何を意味するのです」

「結び目です。存在と存在の結び目。ほどいては結び、結んでは渡す。その動きが世界を“いま”へ保ちます」

 ほどく、結ぶ。
 デカルトの脳裏に、数学の証明で用いた補助線や、論証を支える推論の結合が次々と浮かぶ。
 しかしここでは、結合が証明の終点に収斂するのではなく、流動する場を保つために結ばれ続けている。

 灯明の炎がひときわ大きく揺れ、曼荼羅のある区画に、微かに銀の光が差した。
 そこでは、微細な梵字が連なり、絹の地に水面の波紋のような重なりをつくっている。
 目を凝らすと、一つひとつの梵字が、別の文字の影を宿し、単独で完結しないように見える。

「文字が、互いに影を持つ……」

「音の殻が重なり合っているのです」
 空海は、ほとんど囁きに近い声で言った。
「言葉は固定ではなく、縁起の合奏です。ここでは、名は対象を縛らず、対象は名に閉じこめられない」

 デカルトは、思想史の記憶の底に沈む厳密な定義の数々を思い出す。
 定義は鋭利だ。鋭利であるほど、切断は明快だ。
 だが切断の境目の“薄さ”が、いまは奇妙に心細い。
 この曼荼羅が提示するものは、切断の線よりも、結び目の太さ、撓たわみ、伸縮、そして線が線であることを保ちながら線であることをやめていく、あの移行の柔らかさだ。

 空海は灯明の高さを少し下げる。光源が下がると、曼荼羅の高低の錯覚が逆転する。
 高みにあったはずの区画が沈み、遠かったはずの像が手前にせり出す。
 視点の移動ではなく、視座そのものが微かに組み替えられていく。

「理性は、何を捨てるべきでしょう」
 デカルトが問う。

「捨てる、ではありません」
 空海は首を横に振った。
「並べるのです。理性の隣に感覚を、感覚の隣に沈黙を。沈黙の隣に、祈りを。
 隣り合うものは、互いを否定せず、互いを正す。曼荼羅はその“隣”の設計図です」

 隣り合う──。
 彼は、幾何学の証明で補助線が作る“隣接”を思う。
 ここでの隣は、距離の近さよりも、時の重なり、意味の往還、気配の行き来で定義されるらしい。
 距離の無い隣接。時間の厚みだけが隣をつくる。

 堂外から、ひとしずく雨が落ちる音がした。
 続いて、屋根の端を叩く連続音。
 雨粒の生む微細なリズムが、曼荼羅の幾何の拍に重なり、見えない譜面がゆっくりと展がる。
 デカルトは、胸の内に小さな拍子木が置かれたように感じた。刻みは一定だが、打たれるたびに、その一定がわずかに広がり、戻り、また広がる。

「私は、中心を探してしまう」
 彼は正直に告げた。
「どれほど視線を泳がせても、心はどこか一点に拠りたくなる。そこに、確かさを置きたいのです」

「中心は、器であって、石ではありません」
 空海は視線で曼荼羅の核を示した。
「器は、満ちては空き、空いては満ちます。
 あなたが“中心”と呼ぶものは、固定ではなく、受け渡しの場なのです」

 受け渡し──。
 彼は、師と弟子、問いと答え、命題と証明のあいだを流れる目に見えない時間を思い描く。
 受け渡しの場ならば、中心は一点ではなく、連鎖する“時”の厚みであるはずだ。
 確かさは、釘のように打ち込まないのだ。
 確かさは、呼吸のように保つのだ。

 空海は、曼荼羅の手前に小さな敷物を広げ、座を促した。
 デカルトが座すると、床の固さが素直に背骨を支え、腰のどこにも余計な力が入らないことに気づく。
 呼吸が自然に長くなり、吸う息と吐く息の間が、これまでよりも少し広い。

「目を閉じ、曼荼羅を閉じないでください」
 空海の指示は矛盾をはらんでいるが、身体はためらわずにそれに従う。
 目蓋の裏で、さきほどの群青が、今度は深い井戸の底の影として立ち上がる。
 朱は井戸の縁に張り付いた温度になり、金は、喉の奥で転がる小さな丸薬のように存在感を持つ。

 音が戻ってくる。
 雨は少し強くなった。
 堂内の空気は、濡れた土の匂いを含み、香の甘さと重なって、遠い記憶をひとつ呼び寄せる。
 幼い日の朝、湿った石畳の匂い。
 その上を渡る自分の影。
 影は、当時の自分よりも静かに歩いた。

「記憶が、勝手に」

「縁が触れると、記憶は来ます」
 空海の声は近い。
「来たものを追わず、来ないものを待たない。
 ただ、“来る”を受け入れ、“去る”を見送る。その間あいだに、曼荼羅は成り立ちます」

 デカルトは眼を開けた。
 曼荼羅は、たしかに“変わっていない”のに、まるで別の顔を持っている。
 ひとつの像の輪郭が、別の像の余白として浮かび、余白は余白のまま意味を孕む。
 彼は、余白に向けて小さく頷いた。
 そこに、何かが在る。

「私は、ようやく、ここが“門”であるとわかりかけています」

「門を“越える”のではありません」
 空海は微笑を含む。
「門は、通過点であり続ける。中に居ながら、つねに門に立ちます。
 境が消えるのではない。境が、境であることをやめないまま、渡し舟になるのです」

 雨脚がさらに強まる。
 堂の軒から落ちる水は、糸から紐へ、紐から帯へと太さを変え、地面に音の円を描く。
 円は重なり、ほどけ、消える。
 デカルトは、その消え際に耳を澄ました。
 消える直前の、かすかな持続。
 無音の手前で起こる、音の最後の仕事。

「空海、私の理性は、いま、抵抗していません。
 けれど、理解と言ってよいのかどうか、判断がつきません」

「判断は、橋の中央には要りません」
 空海は、手元の数珠を一度だけころんと転がした。
「こちら岸と向こう岸が、互いを指し合う場に、正誤の札ふだは立たない。
 ここで必要なのは、渡る歩幅を保つことです」

 デカルトは息を吐く。
 歩幅、という言葉が、からだにすっと入る。
 そして、彼はゆっくりと立ち上がった。
 曼荼羅の前に、二歩、三歩。
 距離はほとんど変わらないのに、近づいていく感覚だけが確かに増える。

「あなたは、いま“読む”のをやめました」
 空海は静かに告げる。
「これからは、“歩む”の番です」

 に、掌を向ける。
 触れてはいない。だが、掌の内側に、冷たい気流のような微かな動きが当たる。
 その向こう側から、同じ強さでこちらへ向かう流れが返ってくる。

 往と還。
 押しと引き。
 問と応。

 彼は掌を引き、胸の前で合わせた。
 いんではない。未熟で、たどたどしい、しかし確かめるような両掌の合。
 その瞬間、曼荼羅の中心で、ひときわ小さな灯がひらめき、すぐに消えた。

 ひらめきは、しるしではなく、合図でもない。
 ただ、歩幅が合ったときに自然に生じる、ささやかな同期。

 デカルトは空海の方を見ず、視線を曼荼羅に置いたまま、短く言った。
「ここから先を──お願いします」

 空海は軽くうなずく気配だけを残し、声を落とした。
「では、“色即是空”の入口へ。
 形はくうで、くうは形。
 あなたの歩幅で、確かめましょう」

 雨はいつのまにか細くなっていた。
 堂内の空気は澄み、香の筋はまっすぐに伸びる。
 曼荼羅の色は、先ほどよりも淡いのに、輪郭は深く、遠いのに近い。
 門は、ひっそりと開いたまま、彼らを見送っている。

つづく…

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空海は、夢のように崩れゆく過去の中で、
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デカルトは、記憶の迷宮をさまよいながら、
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そして釈迦の沈黙にふれるたび、
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『こころの座標』、沈黙のその先へ。

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【次回予告】

あらゆるものが織りなす曼荼羅の網の目に、
ふたりの視界は、次第に深い構造を見はじめる。

触れられるもの、見えるもの、思うことすら――
すべては、空なるものから生まれ、
また空へと還ってゆく。

空海の語る「色即是空」は、ただの言葉ではない。
それは世界の骨組みであり、
生と死のあわいに立つ者たちが見る、
透明な真実のかたち。

デカルトは問いかける。
「形なきものは、どうして形あるものを支えるのか?」
その問いの先に浮かぶのは、思考を超えた〈在る〉という静かな確信。

次回、ふたりは“空”の構造そのものに触れる。
世界が形を変えていく、その一瞬をご一緒に。

長編連載小説『こころの座標』(18)第七章 色即是空の構造―③
2025年09月13日 21:00 公開

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お寺の住職をしております。 昨今よく耳にするのは、先祖代々の宗派がわからない、菩提寺が地方にあるため何年も供養をしたことが無い等でお困りの方が多くいらっしゃいます。 ご法事・供養でお悩みの方、水子供養・お祓いなどお気軽にお寺にご相談下さい。