2025年8月

小説『こころの座標』(15)第六章 観照の彼岸

小説 『こころの座標』 (15) 第6章―⑤

 太陽が高く昇ると、木々の影は縮まり、地面に淡い光の網を編み始めた。風は静かに吹き、葉の一枚一枚がまるで呼吸するように、わずかに震えていた。
 空海とデカルトは、深い杉林を抜けた先の岩場に辿り着いていた。そこは谷を見下ろす断崖の縁であり、遠くに水音が響いていた。
「ここは、“時”が止まる場所です」
 空海の声は、風の音に溶けるように柔らかかった。
「止まる……? 時間が?」
「いえ、“止める”のではありません。“融ける”のです。時間は直線ではなく、感じられ方なのです。観照の深まりに従って、時間も空間もその性質を変えていきます」

小説『こころの座標』(14)第六章 観照の彼岸 

小説 『こころの座標』 (14) 第6章―④

山を越えた風が、梢をざわめかせていた。
 雲が流れ、木洩れ日が斑まだらに差し込む林のなか、ふたりは苔むした小堂の前に立っていた。
「ここは、かつて私が一人で瞑想を重ねた場所です」
 空海がそう言って、そっと堂の扉を押し開けた。中は簡素だった。木の床、壁にかけられた法輪、そして中央にはわずかな灯明。だがそこには、言葉では言い表せぬ静寂が満ちていた。
「デカルト。今ここで、観照の実践を共にいたしましょう。これは“思惟”ではなく“経験”の次元です。理性を超えて、響きそのものと交わる道です」

小説『こころの座標』(12)第六章ー②

小説 『こころの座標』 (12) 第6章―②

朝霧がわずかに晴れた山道を、ふたりは再び歩いていた。
 谷に沿って流れる小川のせせらぎは、まるで内なる声のように、静かに彼らの耳に届いていた。鳥の声は空に溶け、光はまだらに木漏れ日となって足元を照らしていた。けれど、デカルトの心はその風景とは異なる、深い内奥へと向かっていた。
「空海……」
「はい」
「私は昨夜、夢の中で“私”が消えていく感覚を味わいました。顔が消え、手が消え、最後には存在そのものが霧に溶けた……。だが、不思議と恐ろしくはなかった」