【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われて時間の旅』 (5) 第1章 荒野の独白と幻―④

『こころの座標』外伝(5)第1章 沈黙の荒野 荒野の独白と幻影ー④

(4)荒野の独白と幻影

 日が沈むと、荒野はいっそう冷え込んだ。
 昼間の湿った霧は消え、代わりに凍りつくような静寂が広がっている。
 デカルトは岩陰に腰を下ろし、外套をかき寄せた。
 焚き火を起こす薪もなく、彼を包むのは星の光だけだった。
 頭上には満天の星が散りばめられていた。
 だが、その美しさは彼に安らぎを与えるよりもむしろ孤独を強調した。
 星々は無数にあれど、どれ一つとして彼に語りかけることはない。

 彼は息を吐き、低く呟いた。
「理性は、私を導く光である。しかし同時に、それは私をこの孤独の只中に閉じ込める刃でもあるのか……」
 荒野の空気は答えず、ただ冷たさを増すばかりだった。

 デカルトは膝を抱え、思索を始めた。
「理性は人と人を結びつける。言語も数学も、理性の産物として共有されてきた。
 だが、もし理性を語りかけても、飢えた母や子どもには届かなかった。
 届くのは、もっと別の何か――歌や沈黙。
 理性が橋を架けるはずの場所に、理性は壁を築いているのかもしれない」
 
 彼は目を閉じ、故郷の情景を思い出した。
 フランスの田園。小川のせせらぎ。母の声。幼き日に感じた安心。
 ――だが今、その温もりは記憶の幻影に過ぎない。理性では取り戻せないものだった。
 胸に去来する問いが尽きることはなかった。

「私は誰に語っているのか。思索は誰に届くのか。
 私の“我あり”は、私だけのものでしかないのか……」

 そのとき、耳元で声がした。

「ルネ……ルネ……」

 デカルトは、はっとして振り向いた。そこには誰もいない。
 しかし声は確かに聞こえた。柔らかく、懐かしい声。母の声だった。
 幻影のように、母の姿が霧の中から浮かび上がった。
 温かな微笑を浮かべ、彼を見つめている。

「あなたの思索は、美しい。でも、孤独を深めすぎてはいけません」

 デカルトは震える声で答えた。
「母上……理性こそが、私を支える唯一のものです。
 しかし理性は、私を人々から遠ざける。私はどうすれば……」

 母の幻影は答えなかった。
 ただ微笑み、彼の肩に手を置く仕草をした。だが触れられることはなかった。
 影はすぐに霧に溶け、夜に消えた。

 続いて、もうひとつの影が現れた。イエズス会の師である。
 彼は厳しい眼差しでデカルトを見据え、低く言った。

「ルネ、お前は理性を絶対とする。しかし理性だけでは人を救えぬ。
 神を忘れ、救済を置き去りにして、ただ孤独な思考に沈んでいくつもりか」

 デカルトは歯を食いしばった。
「神を否定したわけではない。
 私はただ……理性を通して、確実に疑い得ぬ基盤を見つけようとしているのです」

 師は首を振った。
「基盤は石のように固いかもしれぬ。
 しかし、飢えた者にはパンが要るのだ」

 その言葉は、昼間に見た村人たちの姿を思い起こさせた。
 デカルトの胸は締めつけられた。
 やがて師の影も霧に溶け、夜空へ消えた。

 さらにもうひとつ――若き友人パスカルの姿が現れた。
 彼は細身の体を覆うマントを翻し、真摯な声で告げた。

「人間は、考える葦である。理性は人を強くもするが、脆さをも露わにする。
 あなたが理性を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、その孤独は深まるだろう」

 デカルトは叫んだ。
「では……私は……理性を捨てねばならぬのか?
 それは私の存在の証そのものだ!」

 パスカルは静かに答えた。
「捨てるのではない。理性の限界を抱えたまま、それを超えるものを受け入れるのです」
 その言葉を残し、彼の姿は星空に溶けて消えた。

 デカルトはしばらく呆然とし、やがて大きく息を吐いた。
「理性は、私を孤独にする。だが理性を手放せば、私は私でなくなる。
 ……ならば私は、この孤独を抱えたまま歩むしかない」

 その決意を心に刻むと、彼の視線は東の空に向いた。
 夜がわずかに薄まり、地平線が灰色に染まり始めていた。
 星々が一つ、また一つと光を失い、代わりに冷たい暁の気配が世界を覆い始める。
 遠くで鳥の声が一度だけ響いた。
 デカルトは立ち上がり、外套を正した。
 孤独は消えない。だが幻影たちの声が、彼に新しい問いを残した。
 その問いこそが、彼を次の一歩へと導いていた。

つづく…

 

【次回予告】

荒野の果て、ふたりは闇に包まれた裂け目へと足を踏み入れる。
陽の光は届かず、音も時も沈黙し、ただ岩肌の冷たさが身体にまとわりつく。

その奥で出会ったのは、
時間からも、名前からも離れた、ひとりの哲学者。
焚き火のかすかな明かりのもと、
彼は語るでもなく、ただ“見る”ことに徹していた。

「影にこそ、真実が宿る」と彼は言う。
空海は黙して耳を澄ませ、
デカルトはその沈黙のなかに、思考の反射を見つめる。

洞窟の奥には、出口はない。
だが、その暗闇のなかでしか見えない世界が、確かにあった。

次回、ふたりは“見る”という行為の根源へと沈んでゆく。
光と影、真理と仮象の境界線が、ゆっくりと溶けていくその場所で――
哲学の火は、そっと揺れながら、今も燃えている。

【長編連載小説】 『こころの座標』 (6)
第1章  孤独の荒野世界の座標 洞窟の哲学者ー⑤
2025年10月22日 21:00 公開

 

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