【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (10) 第2章 慈悲の成就をめぐる問答—③

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (10) 第2章 慈悲の成就をめぐる問答—③

読了時間(約7分)

(3)慈悲の成就をめぐる問答

 霧がいったん晴れ、山の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。 風が一筋、梢を揺らす。葉の音が波のように連なり、やがて再び静まり返った。 空海は深く息を吸った。肺に満ちる空気が、どこか甘い香を含んでいた。沈香のようであり、遠い記憶の匂いのようでもあった。

 弥勒はなお、その場に立っていた。 光を孕んだ身体は輪郭を持たず、見ているうちに形を変える。 ある瞬間には人の姿に見え、次の瞬間にはただの光の柱に見えた。 だがその“在り方”は一貫していた――揺らぎの中にある完全。

 空海は、その光景を前にして、胸の奥に生まれた言葉を押さえきれなかった。

「未来仏よ。あなたの教えを聞いて、私は知りました。慈悲は未来に咲く花ではなく、今この時にも根づいていると。けれど……それでも私は問いたい。なぜ、成就は先に延ばされねばならぬのですか? いま、飢える者、苦しむ者、涙を流す者たちを、なぜあなたは救えないのですか」

 その声には怒りと悲しみが入り混じっていた。 修行僧としての冷静を越えた、ひとりの人間としての叫びだった。

 弥勒は微笑を崩さなかった。 代わりに、霧の中の空気が震えた。見えない鐘の音が鳴るように、空全体がわずかに振動する。 彼の沈黙は拒絶ではなかった。それは、問いをそのまま鏡として返すような沈黙だった。

 ――お前は本当に“いま”を見ているか。 ――“救う”とは何を指すのか。

 言葉にならぬ問いが、空海の胸に響いた。

 彼は息を呑み、目を閉じた。 心の中に、さまざまな光景が浮かぶ。 山奥で病に倒れた僧。荒野で飢え死にした旅人。 朝に笑い、夕に命を落とした幼子。

 そのひとつひとつが、彼の胸を突き刺した。

 霧が動いた。 世界が再び変わり始めた。 空海の前に、無数の人影が現れた。

 老いた者、幼い者、男も女も、皆が疲れた顔をしている。 彼らの目は虚ろで、手には何も持っていない。 それでも彼らは進んでいた。 暗闇の中を、まるで見えぬ光に導かれるように、ただ前へ前へと歩いていた。

 空海は息を詰めた。「……彼らは、どこへ向かっているのですか?」

 弥勒の声が、光の中から響いた。「彼らは未来を歩んでいる。救われるためではなく、救いを生み出すために。」

 空海は理解できなかった。「救いを、生み出す……?」

「そう。彼らの歩みそのものが、未来の慈悲を形づくる。 苦しみの中を歩む者は、無意識のうちに他の命を照らしている。 人の悲しみは、次の誰かを支える光になる。 慈悲の成就とは、ひとりの悟りではなく、すべての命が連なりあうことなのだ。」

 その言葉はあまりに大きく、空海の理解を超えていた。

 霧が再び渦を巻き、今度は光が層をなした。 その中に無数の場面が浮かんだ。

 ある層では、古代の僧が火を焚いて祈っている。 ある層では、未来の子どもが電子の光に手をかざして微笑んでいる。 さらに別の層では、誰とも知れぬ者が涙を流している。

 それらが同時に存在していた。 時間は直線ではなく、円環のように重なり合っていた。

「見よ、空海よ」

 弥勒の声が響いた。「過去の祈りは未来を育て、未来の慈悲は過去を照らす。 時間は一方向ではない。すべては今という一点に重なっている。 だからこそ、そなたの一つの祈りが、未来の成就を変える。」

 空海は呆然と立ち尽くした。 言葉を超えた世界が、彼の前に広がっていた。 光は言葉にならず、ただ脈動として胸の奥に響いた。

 やがて、光の層が薄れ始めた。 現実の山の空気が戻ってくる。 だが空海の胸は、まだ光で満たされていた。

「それでも……私は……!」 彼は思わず叫んだ。「それでも、いま苦しむ人を救いたいのです! 未来のための苦悩ではなく、今日を生き抜くための救いが欲しいのです!」

 その叫びは山に反響した。鳥が一斉に飛び立ち、風が谷を駆け抜けた。

 弥勒は穏やかに答えた。「その願いこそが、慈悲の始まりだ。 “いま救いたい”という痛みが、未来の光を呼ぶ。 そなたの涙が落ちた場所に、やがて花が咲く。 だが花は、一夜で咲くものではない。」

 空海は拳を握り、目を閉じた。 自らの涙が土に染みていく光景が見えた。 その土の中で、何かが芽吹こうとしていた。

 弥勒は空海に歩み寄った。光が彼の足跡に重なり、地面に金の花弁が散った。 その姿はもはや現実ではなかった。空海の前に立つ弥勒は、形を保ちながらも、光の流れそのものになっていた。

「空海よ。 そなたは“救う”という言葉を使う。 だが、救うとは何か? 苦しみを取り除くことか、それとも苦しみと共に歩むことか?」

 その問いは、彼の胸を貫いた。 言葉を持たない痛みが、心の奥に響いた。

 弥勒は続けた。「もしそなたが誰かを救いたいと願うならば、その時点で、そなたはすでに彼らと共にある。共に在ることこそ、救いの始まりだ。」

 その言葉に、空海の頬を再び涙が伝った。 彼は思わず膝をつき、地に手をついた。

「私は……何度も祈りながら、届かぬことに絶望していました。 けれど今、ようやくわかります。 救いとは届くことではなく、共に在ることなのですね。」

 弥勒の身体が、再び輝き始めた。 彼の背後に、巨大な光の曼荼羅が広がる。 無数の線が交わり、円を描き、そこに無限の仏の姿が浮かび上がった。 それは静止しているようで、同時に流動していた。 曼荼羅の中心には、大日如来が坐していた。

 弥勒の声が重なった。「空海よ、慈悲の成就とは、曼荼羅が完成することではない。 曼荼羅が呼吸し続けることなのだ。 光と闇、苦しみと喜び、死と生――それらが互いに映し合う中で、慈悲は常に生まれ変わる。 未来とは、完成ではなく、呼吸である。」

 その瞬間、曼荼羅の光が彼を包み、空海の全身が震えた。 身体の境界が溶け、光とひとつになっていく。 過去も未来も、上も下も、すべてが溶けていった。

 どれほどの時間が流れたのか分からない。 光が収まったとき、空海は静かに座していた。 周囲は霧に戻り、弥勒の姿はもうなかった。 だが、彼の心の中には確かに“声”が残っていた。

 ――成就とは、終わりではない。 ――苦しみの中に光を見いだすこと、それが慈悲の完成である。

 空海はゆっくりと立ち上がった。 彼の目は赤く潤んでいたが、その表情には穏やかな笑みがあった。 胸の奥で、弥勒の微笑が生き続けていた。

 風が吹き、霧が流れた。 その中で、遠くの空が薄く光り始めた。 夜が明けるのではない。 彼の中に宿った未来の光が、世界を照らし始めたのだ。

 空海は静かに呟いた。「慈悲の成就とは、待つことではなく、生きること。 私は、歩み続けよう。」

 その声が霧の中に溶けていったとき、 森の奥でひとつの蓮が咲いた。

 それは、未来の約束だった。

つづく…

【次回予告】

霧深き山の導きのもと、未来仏・弥勒との邂逅を果たした空海は、心に灯る光を胸に刻みつつ、再び人の世界へと歩み出す。

しかし彼を待っていたのは、廃墟と化した村。焦土の残り香、井戸に落ちた玩具、言葉を失った老女――そこにあるのは、理想の未来とは対極にある、荒廃した〈現在〉の姿だった。

問いが生まれる。

いまこの時を生きる人々の、痛みや渇き、怒りや嘆きは、未来へと通じるのか。慈悲は、いかなる苦悩を照らせるのか。

かつて理性によって世界を変えようとした者と、霊性によって世界を受け入れようとした者。ふたりの哲人が見つめるのは、理想でも幻想でもない、生の只中にある「現在」の闇と光。

瓦礫の上に立つ空海の眼差しの先に、未来はあるのか。その苦悩の答えは、ひとつの静かな出会いと、祈りに似た問いかけの中に浮かび上がる。

――これは、未来の光を受けながらも、今を生きる者たちが避けては通れぬ「現在」という問いに挑む章。

現実の矛盾と慈悲の限界を照らし出す、「魂の試練」編、始まる。

【長編連載小説】 『こころの座標』(11)外伝:失われた時間の旅
第2章 弥勒との未来問答 現在の苦悩ー④
2025年11月26日 21:00 公開

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA