(5)観照の彼岸 ―― 時間と空間の融解
太陽が高く昇ると、木々の影は縮まり、地面に淡い光の網を編み始めた。風は静かに吹き、葉の一枚一枚がまるで呼吸するように、わずかに震えていた。
空海とデカルトは、深い杉林を抜けた先の岩場に辿り着いていた。そこは谷を見下ろす断崖の縁であり、遠くに水音が響いていた。
「ここは、“時”が止まる場所です」
空海の声は、風の音に溶けるように柔らかかった。
「止まる……? 時間が?」
「いえ、“止める”のではありません。“融ける”のです。時間は直線ではなく、感じられ方なのです。観照の深まりに従って、時間も空間もその性質を変えていきます」
デカルトは、眼下に広がる谷を見つめた。木々のざわめき、水の流れ、鳥の旋回。すべてが動いている。だが、そのすべてが“静止しているように感じられる”不思議な錯覚があった。
「今……私は、すべてが“いま・ここ”に収斂しゅうそくしているように感じます。過去も未来もない。ただ、“在る”ということだけが、確かなのです」
「それが“観照の彼岸”です」
空海はそう言って、両手を天へ向けて広げた。
「私たちは通常、“時間”という流れのなかで思考し、“空間”という区切りのなかで存在します。けれど、観照が極まると、その流れも区切りも意味を持たなくなる。ただ“永遠の今”が、すべてを包み込むのです」
「永遠の……今」
デカルトはその言葉をゆっくりと繰り返した。
「それは、私の哲学の最終の問いでもありました。“永遠”とは何か。“今”とはどこにあるのか。だがあなたの言葉は、その問いを打ち消すように、問いの外側から語りかけてくる」
「問いが消えるとき、存在は初めて“そのまま”に現れます。理性の問いは、“まだ答えられていない何か”を追いかけます。しかし観照は、“すでに在るもの”に耳を澄ませる行為です」
そして空海は、岩の上に坐った。足を組み、掌を天に向け、静かに目を閉じた。
「時間が融けるというのは、現在が永遠になることではありません。現在が、“もはや時間ではない何か”になるのです」
デカルトもまた、その隣に坐した。
風がふたりのあいだを吹き抜けたとき、世界は、わずかに形を変えたように見えた。
静かだった。
風が吹いていたはずなのに、それすらも彼の意識には届かなくなっていた。すべてが、まるで水のなかにあるように、輪郭を失っていた。だが、そこには不安も恐れもなかった。ただ、深く、透明な静けさがあった。
「空海……」
デカルトはゆっくりと口を開いた。
「私は今、時間が消えていくのを感じています。過去も未来も、いまという点に吸い込まれ、同時に滲んでいくような……そんな奇妙な感覚です」
「それは、あなたの意識が“形”という制約から解き放たれ始めた証です」
空海は目を閉じたまま、静かに語った。
「仏教では“法界”という言葉があります。法界とは、時間と空間が溶け合い、区別のない全体としての世界です。そこでは、自己と他者、始まりと終わり、前後や上下といったすべての境界が消えていきます」
「私は今、自分の体がどこにあるのか、すらわからない。だが、私は確かに“ここ”に在る。むしろ、私は“ここでしかない”のかもしれない」
「その“ここ”とは、物理的な場所ではありません。“在ること”そのものが、“ここ”なのです。そしてその在り方が、観照の果てにある“彼岸”なのです」
デカルトは目を閉じた。
その瞬間、彼の中に一つの情景が浮かび上がった。
それは、自分が水のなかに漂っているような感覚だった。上も下もなく、始まりも終わりもない。ただ、自分という意識だけが、ゆるやかに光とともに浮遊していた。
光は動かず、しかし全方位から届いていた。
そのなかで、彼は“言葉をもたない理解”を得た。
――時間は流れではなく、在り方である。
――空間は距離ではなく、響きである。
――“私”は、固定された存在ではなく、全体のなかに開かれた“気配”である。
意識が戻ったとき、空は高く晴れわたっていた。風がまた吹き始め、木々がざわめきを取り戻していた。
空海は微笑をたたえながら、立ち上がった。
「観照の彼岸に触れた今、あなたの中の“見る者”は、世界のなかに溶け込んだでしょう。もはや見ることは、対象を捉えるのではなく、世界と共鳴する行為です」
「……私は、初めて、世界と“ひとつ”になれた気がします」
「それが、霊性の最初の完成です。そして、そこから新たな“生”が始まるのです」
谷を流れる水音が、より深く耳に響いていた。
それは“音”というより、世界そのものの脈動のように思えた。
デカルトはゆっくりと、目を閉じた。
そこには、時間も空間もなかった。
ただ、“在る”という光だけが、すべてを照らしていた。
つづく…
【次回予告】第六章 ー⑥ ――「私たちの彼岸 ―― 観照と共感の共鳴」
すべてが溶け合い、静まりかえった観照の世界。
そこでふたりは、何も語らず、何も問わず、
ただ“在る”ことの確かさに身をゆだねます。
空海の祈りと、デカルトの理性。
ふたつの道が、はじめて一点に重なったとき、
世界は、ほんのかすかな震えとともに――
新しい座標を描きはじめます。
沈黙の旅の終わりに見えたものとは何か。
そして、ふたりが辿りついた“本当の出発点”とは。
次回、内なる地図がそっと描かれ、物語は曼荼羅の扉へと向かいます。
第六章 ー⑥ ――「私たちの彼岸 ―― 観照と共感の共鳴」
025年08月30日(土) 21:00 公開
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