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(2)倒れゆく兵士の問い
戦場の中央から少し離れた場所には、奇妙な静けさがあった。
剣戟も怒号もすでに遠く、ここにあるのは、命がゆっくりと失われていく音だけだった。音と言っても、耳で捉えられるものではない。呼吸が擦れる感触、血が土に染み込む気配、身体の熱が冷えていく時間――そうしたものが、重なり合って空気を満たしていた。
デカルトは歩いていた。
第1節で見た死者たちの影は、まだ網膜の奥に焼き付いている。だが、ここでは死はすでに終点ではなかった。終わりきれない命が、低く、しかし確かに呻いている。
足元で、何かが動いた。
最初は風に揺れた布切れかと思った。だが次の瞬間、それが人の腕だと分かった。泥に半ば埋もれ、指先だけが微かに動いている。
デカルトは駆け寄り、膝をついた。
そこに横たわっていたのは、若い兵士だった。
顔にはまだ産毛が残り、年若いことがすぐに分かる。鎧は裂け、胸当ては歪み、腹部から腿にかけて深い裂傷が走っていた。血はすでに多く流れ、泥と混ざり合って黒く固まり始めている。
兵士の目は開いていた。
だが焦点は定まらず、空を見ているのか、遠い記憶を見ているのか分からない。
「……水を……」
かすれた声だった。
デカルトは腰袋から水筒を取り出し、慎重に兵士の口元へ運んだ。数滴が唇を濡らし、兵士はわずかに喉を動かした。
「……ありがとうございます……」
礼を言う声に、まだ理性が残っていることが分かる。
それが、かえって痛ましかった。
デカルトは傷口を確認した。
止血は可能だ。だが、出血量、感染、衰弱――理性は瞬時に計算を始め、冷酷な結論を導き出す。助かる可能性は、決して高くない。
彼は、その結論を口にしなかった。
兵士はしばらく沈黙していた。呼吸のたびに、胸が小さく上下する。その動きは、風に揺れる灯火のように不安定だった。
「……あなたは……」
兵士が、再び口を開いた。
「……兵では……ありませんね……」
デカルトは頷いた。
「私は……考える者だ」
兵士の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
それは希望の笑みではない。だが、どこか安堵に近いものだった。
「……そうですか……
なら……聞いても……いいですか……」
デカルトは答えなかった。
しかし、その沈黙が許可であることを、兵士は理解したようだった。
兵士は目を閉じ、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……私は……怖かった……
戦う前も……戦っている間も……
でも……逃げたら……
仲間に……置いていかれると……」
声は途切れ途切れだった。
だが、その一言一言は、戦場で最も正直な言葉だった。
「……だから……剣を……振りました……
相手の顔を……見ないように……」
デカルトの胸が締めつけられた。
これは告白だった。懺悔でも正当化でもない。ただ、起きたことをそのまま並べているだけの言葉だった。
兵士は、かすかに首を振った。
「……人を……殺したと……思います……
でも……今は……
その顔を……思い出せません……」
沈黙が落ちた。
戦場の風が、二人の間をすり抜けていく。
そして、兵士は問いを置いた。
「……それって……
私が……悪いから……ですか……」
その問いは、剣よりも鋭く、鎧よりも重かった。
デカルトは答えられなかった。
善悪の理論はある。
責任を分配する枠組みもある。
だが、この問いは、それらを求めていなかった。
兵士は、自分が「人であったのか」を知りたかったのだ。
デカルトは、言葉を探しながら、兵士の手をそっと握った。
その手は、すでに少し冷え始めていた。
兵士の問いは、すぐに答えを求めてはいなかった。
それは、裁きを乞う声でも、赦しを願う声でもない。
ただ、自分が「人として存在していたかどうか」を確かめるための、最後の確認のように響いた。
デカルトは、しばらく沈黙を保った。
言葉を選んでいたのではない。
この場で言葉を発すること自体が、正しいのかどうかを量っていた。
戦場では、多くの言葉が無意味になる。
だが、沈黙もまた、暴力になり得る。
「……悪い、という言葉は……
この場では……あまりに軽い」
ようやく口にした声は、思ったよりも低かった。
兵士は、薄く目を開けた。
その瞳は揺れていたが、まだ意識は保たれている。
「……軽い……?」
「ああ。なぜなら……
“悪い”と決めてしまえば……
考えることを……やめられるからだ」
兵士は、すぐには理解できない様子だった。
だが、否定もしなかった。
デカルトは続けた。
「君は……命令に従った。
恐怖を感じ……
それでも……逃げなかった。
それは……誇れることではないかもしれない。
だが……
簡単に“悪”と呼べることでもない」
兵士の指が、かすかに動いた。
その動きは、握ろうとする力でも、拒もうとする力でもなかった。
ただ、言葉を掴もうとするような、弱い反応だった。
「……でも……
私は……剣を……振りました……
誰かが……死んだ……
それは……消えない……」
デカルトは頷いた。
「消えない。
だからこそ……
考え続けなければならない」
兵士の眉が、わずかに歪んだ。
「……考える……
考えたら……楽に……なれますか……?」
その問いに、デカルトは首を横に振った。
「ならない。
むしろ……苦しくなる」
兵士は、短く息を吐いた。
失望ではなかった。
覚悟に近いものだった。
「……それでも……
考えろ……と……?」
「……そうだ。
考えることは……
楽になるためではない。
人であり続けるためだ」
風が吹き、霧がわずかに流れた。
戦場の匂いが、再び強くなる。
血と鉄と湿った土の匂い。
それらは、どれも現実だった。
兵士は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、逃避ではなく、内側へ沈む時間だった。
「……じゃあ……
私は……
人……だった……?」
その問いは、先ほどよりも弱く、しかし深かった。
デカルトは、兵士の手を握り直した。
冷えは進んでいる。
時間は、確実に少なくなっていた。
「……ああ。
少なくとも……
問いを持った瞬間……
君は……人だった」
兵士の唇が、かすかに震えた。
何か言おうとして、言葉にならない。
やがて、微かな声が漏れた。
「……それなら……よかった……」
その言葉は、安堵だった。
世界を肯定するものではない。
ただ、自分自身が完全に空虚ではなかったと知った、短い安らぎだった。
デカルトは、その安らぎを壊さぬよう、何も付け加えなかった。
沈黙の中で、兵士の呼吸はさらに浅くなっていく。
それでも、問いは消えていなかった。
問いは、形を変えながら、まだ彼の内に灯っていた。
兵士の呼吸は、もはや一定の間隔を保っていなかった。
吸う息と吐く息のあいだに、微妙な“ためらい”が生まれている。身体が次の呼吸を選びあぐねているようだった。
デカルトは、その変化を見逃さなかった。
理性は冷静に告げる――残された時間は短い。
だが、いま彼の胸にあったのは、時間を節約する焦りではなく、問いが終わる前に終わってしまうことへの恐れだった。
兵士は、再び目を開いた。
焦点は合っていない。それでも、何かを“探している”目だった。
「……あなたは……
どうして……
ここに……?」
その問いは、自分自身のことを問う声ではなかった。
戦場に立つこの男――デカルトという存在そのものを、不思議がっている声音だった。
「……偶然だ。
だが……
偶然で済ませていいのか……
私にも……まだ分からない」
兵士は、かすかに笑った。
その笑みには、皮肉も諦めもなかった。
「……分からない……
って……
ちゃんと……言える人……
初めて……見ました……」
デカルトは言葉を失った。
“分からない”と言えることが、そんなにも特別なことなのか。
だが戦場では、確信だけが命令として飛び交い、疑いは弱さとして切り捨てられる。
「……皆……
正しいって……
言ってました……」
兵士の視線が、遠くへ流れる。
すでに見えていないものを、なお見ようとしている。
「……正しい……
神が……
王が……
国が……」
言葉が、ひとつずつ崩れていく。
「……でも……
倒れてみたら……
正しさって……
どこにも……」
声が、途切れた。
その沈黙は、絶望ではなかった。
むしろ、長い錯覚から覚めた者の静けさに近かった。
デカルトは、兵士の言葉を否定しなかった。
否定できなかった、と言うべきかもしれない。
「……正しさは……
倒れて初めて……
疑われる」
兵士の指が、微かに動いた。
泥に触れ、血に触れ、冷えた大地を確かめる。
「……じゃあ……
この……
土の……
冷たさは……
本物……ですね……」
「ああ……
それだけは……
疑いようがない」
兵士は、ゆっくりと瞬きをした。
まぶたの動きが、だんだん重くなる。
「……もし……
生きて……
帰れたら……」
言葉は、願いではなく、仮定だった。
「……もう……
剣は……
持ちたく……
ない……」
デカルトの喉が詰まる。
その言葉は、どんな哲学書よりも重かった。
「……持たなくていい。
ここに……
置いていけ」
彼は、兵士の視線の先に落ちている剣を見やった。
刃は欠け、血で黒ずんでいる。
「……重い……
ですよね……」
「……ああ。
人が……
持つには……
重すぎる」
兵士は、かすかに頷いた。
その動きが、最後の意思表示のようだった。
風が吹き、霧が流れる。
戦場の音が、再び遠のいていく。
兵士の呼吸は、次第に聞こえなくなっていった。
兵士の胸は、もはや上下していなかった。
それでも、デカルトはすぐに手を離すことができなかった。
握った手の中に、まだ微かな温もりが残っている。その温もりが、命の余韻なのか、錯覚なのか、判別できなかった。
風が吹き、霧が流れた。
戦場の匂いが、再び鼻を突く。
血、鉄、湿った土――。
それらは、ここが現実であることを容赦なく告げていた。
デカルトは、兵士の顔を見つめた。
目は閉じられ、眉間の緊張も解けている。
そこには、恐怖に歪んだ表情も、怒りに固まった表情もなかった。
問いを抱えたまま、しかし問いに押し潰されることなく終わった顔だった。
彼は、そっと兵士の瞼を閉じた。
その動作は、祈りに似ていたが、祈りではなかった。
答えを与えられなかったことへの後悔もあった。
だが、それ以上に、「問いを問いとして受け取った」という、わずかな誠実さがあった。
デカルトは、しばらくその場に座り込んでいた。
考えようとすれば、考えることはいくらでもできる。
戦争の原因、構造、歴史、権力。
だが、いまそれらを思考することは、ここで死んだ一人の人間を再び利用する行為のように感じられた。
彼は思考を止めた。
いや、止めたのではない。
思考を、沈黙の中に置いた。
遠くで、誰かが負傷者を呼ぶ声がした。
別の場所では、泣き声が上がり、すぐに抑えられた。
戦は終わっても、戦場は終わらない。
デカルトは立ち上がり、兵士の剣を見下ろした。
重く、鈍く、血に濡れた刃。
先ほど、兵士が「重すぎる」と言った言葉が、胸に蘇る。
彼は剣を拾わなかった。
拾うことができなかった。
その代わり、剣の横にあった小石を一つ取り、兵士の胸のそばに置いた。
意味のない行為かもしれない。
だが、意味を与えすぎないことが、いまの彼には必要だった。
そのとき、背後に気配を感じた。
振り返らなくても分かる。
第1節で現れた、あの影――幻影の師だ。
声はなかった。
だが、問いだけが胸に落ちてきた。
――答えられなかったな。
デカルトは、否定しなかった。
「……ああ」
声に出したその一言が、妙に重く感じられた。
――それでも、逃げなかった。
影の言葉は、評価でも慰めでもなかった。
事実を確認するような、冷たい響きだった。
デカルトは、ようやく振り返った。
そこには、やはり人影が立っている。
輪郭は曖昧で、戦場の霧と混ざり合っている。
「……私は……
何も救えなかった」
影は、わずかに首を傾げた。
――救いとは何だ。
デカルトは答えなかった。
答えられなかった。
――問いを残すことか。
――問いを引き受けることか。
影の声が、低く続く。
――少なくとも、お前は“分かったふり”をしなかった。
――それは、理性の敗北ではない。
――理性が、ようやく人の高さに降りてきた証だ。
その言葉に、デカルトは目を閉じた。
胸の奥で、何かが静かに崩れ、同時に別の何かが立ち上がる感覚があった。
兵士の問いは、答えを得なかった。
だが、無意味に消えたわけでもない。
問いは、デカルトの中に移った。
――なぜ、人は殺し合うのか。
――それでも、人は人であり続けられるのか。
影は、ゆっくりと後退した。
霧の中へ溶け込み、やがて消えた。
デカルトは、戦場を見渡した。
死者、負傷者、沈黙。
世界は、何も解決していない。
それでも、彼は歩き出した。
答えを持たぬまま、問いを抱えたまま。
それが、いまの彼にできる唯一の誠実だった。
血に濡れた大地は、なお冷たい。
だが、その冷たさを、彼はもう目を逸らさずに踏みしめていた
デカルトは、兵士の亡骸のそばを離れられずにいた。
歩き出したはずの足が、再び止まっている。
問いを引き受けた覚悟と、現実に残された肉体とのあいだに、まだ距離があった。
戦場には、死者を悼む時間がない。
それでも、時間は確かに流れている。
雲が動き、光の角度が変わり、血の色が少しずつ暗くなっていく。
デカルトは、兵士の顔をもう一度見下ろした。
若い。あまりにも若い。
この顔が、数時間前までは恐怖と命令の中で剣を振っていた。
そして、数分前までは「自分は人だったのか」と問いを発していた。
問いを発する力。
それは、最後まで失われていなかった。
――問いとは、死の直前まで人を人たらしめるものなのか。
その考えが胸に浮かび、同時に別の考えが続いた。
――ならば、答えられないまま問いを引き受けることは、残された者の責任ではないのか。
デカルトは、はじめて「責任」という言葉を、倫理ではなく感覚として理解し始めていた。
彼は戦場を見回した。
少し離れた場所では、負傷兵を支える二人の影が見える。
さらに遠くでは、倒れた仲間の武具を集めている者たちがいる。
誰も泣き叫ばない。
誰も問いを口にしない。
問いは、ここでは危険なのだ。
問いを持てば立ち止まり、立ち止まれば生き延びられない。
戦場は、問いを持たぬ者だけを前進させる構造になっている。
デカルトは、兵士の言葉を思い返した。
――「正しいって、皆言ってました」
正しさ。
それは、問いを不要にする最も強力な道具だ。
正しい戦争。
正しい命令。
正しい犠牲。
それらの言葉が揃ったとき、問いは沈黙させられる。
沈黙は平和ではない。
それは、問いが殺された痕跡だ。
デカルトは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
理性は、正しさを構築する力を持つ。
だが同時に、正しさを盾に問いを排除する力も持つ。
――私は、どちらをしてきたのか。
影の声が、再び胸に浮かんだ。
――お前は、体系を作る者だ。
――だが体系は、問いを救わぬ。
デカルトは、地面にしゃがみ込んだ。
血と泥に濡れた指で、大地を掴む。
冷たい。
理性では測れない冷たさだ。
「……私は……」
声に出しかけて、言葉を飲み込んだ。
何を言うべきか分からない。
分からないまま言葉を出すことが、ここでは最も誠実な態度のように思えた。
彼は、兵士の剣を見つめた。
先ほど拾わなかった剣。
重すぎる、と言われた剣。
ゆっくりと、それを手に取る。
刃は欠け、血で黒ずんでいる。
振るうための道具ではない。
問いの重さを量るための塊だ。
彼は剣を持ち上げ、すぐに下ろした。
そして、地面に深く突き立てた。
剣は、抵抗なく土に沈んだ。
まるで、最初からそこに埋まるために作られたかのように。
「……ここに置く」
誰に向けた言葉でもない。
だが、その行為は、答えの代わりだった。
問いを消さず、
剣を振るわず、
正しさを語らず、
ただ、ここに留める。
それが、いまの彼にできる唯一の応答だった。
風が吹いた。
霧が流れ、戦場の輪郭が再び曖昧になる。
デカルトは立ち上がった。
胸の奥には、まだ答えはない。
だが、問いは確かに根を張っている。
――問いを抱えたまま、生きる。
それが、彼の選んだ態度だった。
彼は歩き出した。
次の死者へ、次の問いへ。
もはや逃げるためではない。
問いを置き去りにしないために。
戦場の影は、なお濃い。
だが、その影の中で、デカルトの足取りだけが、わずかに変わり始めていた。
つづく…






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