(4)観照の技法 ―― 呼吸・印契・光の瞑想
山を越えた風が、梢をざわめかせていた。
雲が流れ、木洩れ日が斑に差し込む林のなか、ふたりは苔むした小堂の前に立っていた。
「ここは、かつて私が一人で瞑想を重ねた場所です」
空海がそう言って、そっと堂の扉を押し開けた。中は簡素だった。木の床、壁にかけられた法輪、そして中央にはわずかな灯明。だがそこには、言葉では言い表せぬ静寂が満ちていた。
「デカルト。今ここで、観照の実践を共にいたしましょう。これは“思惟”ではなく“経験”の次元です。理性を超えて、響きそのものと交わる道です」
空海はゆっくりと床に坐した。背を正し、両膝をつき、両手を腹の前で結んだ。指は繊細な構えを取り、中心にわずかな空間を作っていた。
「これが“印契”です。宇宙と身心を結ぶ“かたち”です。手のかたちは、心のかたちを映します」
デカルトもそれに倣い、空海の対面に坐った。だが、手を組む指先はわずかに震えていた。
「難しい……」
「焦らずに。ただ、息に意識を向けてみてください。吸う息と、吐く息。それだけでよいのです」
空海の声は柔らかく、鼓膜ではなく胸に直接届くようだった。デカルトはそっと目を閉じた。
――吸う。
――吐く。
外から入る風が、身体のなかを通り抜けていくように感じた。呼吸のたびに、自分がひとつの器であることを知る。
「呼吸は、世界との対話です。息を吸えば、世界があなたに入ってくる。息を吐けば、あなたが世界に溶けていく」
やがて、時間の感覚が失われていった。
光も音も、遠ざかる。
ただ、中心にひとつの“光”のようなものが見えはじめた。
それは目で見ているのではなかった。意識の奥底で“観じている”何かだった。
「光が……ある……」
デカルトが呟いたそのとき、空海はそっと頷いた。
「それが、内なる光です。真言密教では“光明真言”と呼ばれ、智慧の実体そのものとされます」
「この光は……私ではない……だが、確かに“私のなか”にある」
「いいえ、“私のなか”ではなく、“あなたが光のなか”に在るのです」
その言葉に、デカルトの中で何かが弾けた。
自己という閉じた容器が割れ、光に包まれる感覚。
その光は言語では掴めなかったが、確かに“真理”そのものだった。
光は、彼の思考を超えていた。
言葉にならないその輝きは、形もなく、重さもなく、ただ“在る”だけだった。それは観念として理解するものではなく、むしろ“感じることすら超えた何か”であった。
「これは……知覚ではない。だが、明らかに在る……」
デカルトは瞑目したまま、内なる空間の奥に深く沈んでいった。
「その光は、“本質”と呼ばれるもののひとつの相です」と空海の声が、まるで夢のなかのように響いた。「真言密教では、それを“仏の智慧”と見ます。しかしその智慧は、知識や情報とは異なり、“在り方そのもの”として現れます」
「在り方……」
「はい。“知る”ための光ではなく、“在る”ための光。観照とは、その光に触れ、己が光の一部であることに気づく行為です」
沈黙が降りた。
それは単なる音の欠如ではない。むしろ、言葉を超えた“在るもの”が満ちる沈黙だった。
しばらくして、空海はそっと印契をほどき、手を膝の上に戻した。
「これが、観照の最初の実践です。呼吸を通じて身体を整え、印契を通じて意識を結び、内なる光と出会う。これは修行ではありますが、何よりも“開かれる”であることが大切です」
デカルトはゆっくりと目を開いた。
目の前の空海の輪郭が、微かに光をまとっているように感じられた。だがそれは幻想ではなかった。彼の意識が変容し、世界の見え方そのものが変わっていた。
「私は……いま、少しだけ、“見ること”が変わったような気がします」
「それが、“観照”の始まりです」
空海は立ち上がり、小堂の扉を開けた。
外には、すでに午後の陽が差し込んでいた。木々の間を風が通り、葉がざわめく。鳥たちが枝から枝へと跳び移り、命が静かに巡っていた。
「世界は変わっていません。しかし、あなたが変わったのです」
「なるほど……」
「観照とは、世界を変えるのではなく、世界の“観じられ方”を変える力です。呼吸をし、印を結び、沈黙し、光と共にある。すると世界そのものが、沈黙のうちに語りはじめます」
デカルトは頷いた。
「空海、私は、かつて“言葉”に真理を求めました。しかし、今は“語らぬもの”にこそ、真理が宿っているように思えてなりません」
「言葉は入口です。ですが、観照とはその奥へ進む道です。奥へ、さらに奥へ……言葉が途切れたところから始まる、音なき響きの世界。それこそが仏の示す“彼岸”なのです」
風が吹いた。木洩れ日が一瞬、ふたりの間にきらめいた。
そのとき、デカルトは微かに涙ぐんでいた。
「私は、これほどまでに沈黙が豊かなものだとは、思いもしませんでした」
「沈黙は、無ではありません。沈黙は、満ちています。声にならぬ祈りと、光と、慈しみと、世界のすべてが、その中にあるのです」
空海は歩き出した。
デカルトもまた、そのあとを静かに歩み始めた。
そして、ふたりは再び森へと入っていった。
呼吸をたずさえ、沈黙を従え、光とともに――。
つづく…
次回予告 「こころの座標(15)」第六章―⑤
観照の彼岸 ―― 時間と空間の融解
深い沈黙の先で、ふたりはついに
“観照”の扉をくぐります。
そこは、光も影も、理性も祈りも、
すべてが溶け合い、ひとつに還る場所。
空海はその中心で、
宇宙そのものを抱くようなまなざしで語り、
デカルトは胸の奥に
これまで知らなかったやすらぎを見つけます。
次回、理性を超えたまなざしが開くとき、
ふたりの魂は観照の彼岸へ――。
心が世界とひとつになる瞬間を、どうぞお聴きください。
「こころの座標」観照の彼岸 ―― 時間と空間の融解 …ご期待下さい!
2025年08月23日(土) 21:00 公開
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