小説 『こころの座標』 (14) 第6章―④

小説『こころの座標』(14)第六章 観照の彼岸 

(4)観照の技法 ―― 呼吸・印契いんげい・光の瞑想

 山を越えた風が、梢をざわめかせていた。
 雲が流れ、木洩れ日がまだらに差し込む林のなか、ふたりは苔むした小堂の前に立っていた。

「ここは、かつて私が一人で瞑想を重ねた場所です」

 空海がそう言って、そっと堂の扉を押し開けた。中は簡素だった。木の床、壁にかけられた法輪、そして中央にはわずかな灯明。だがそこには、言葉では言い表せぬ静寂が満ちていた。

「デカルト。今ここで、観照の実践を共にいたしましょう。これは“思惟”ではなく“経験”の次元です。理性を超えて、響きそのものと交わる道です」

 空海はゆっくりと床に坐した。背を正し、両膝をつき、両手を腹の前で結んだ。指は繊細な構えを取り、中心にわずかな空間を作っていた。

「これが“印契”です。宇宙と身心を結ぶ“かたち”です。手のかたちは、心のかたちを映します」

 デカルトもそれに倣い、空海の対面に坐った。だが、手を組む指先はわずかに震えていた。

「難しい……」

「焦らずに。ただ、息に意識を向けてみてください。吸う息と、吐く息。それだけでよいのです」

 空海の声は柔らかく、鼓膜ではなく胸に直接届くようだった。デカルトはそっと目を閉じた。

 ――吸う。
 ――吐く。

 外から入る風が、身体のなかを通り抜けていくように感じた。呼吸のたびに、自分がひとつの器であることを知る。

「呼吸は、世界との対話です。息を吸えば、世界があなたに入ってくる。息を吐けば、あなたが世界に溶けていく」

 やがて、時間の感覚が失われていった。

 光も音も、遠ざかる。

 ただ、中心にひとつの“光”のようなものが見えはじめた。

 それは目で見ているのではなかった。意識の奥底で“観じている”何かだった。

「光が……ある……」

 デカルトが呟いたそのとき、空海はそっと頷いた。

「それが、内なる光です。真言密教では“光明真言こうみょうしんごん”と呼ばれ、智慧ちえの実体そのものとされます」

「この光は……私ではない……だが、確かに“私のなか”にある」

「いいえ、“私のなか”ではなく、“あなたが光のなか”に在るのです」

 その言葉に、デカルトの中で何かが弾けた。

 自己という閉じた容器が割れ、光に包まれる感覚。

 その光は言語ことばでは掴めなかったが、確かに“真理”そのものだった。

 光は、彼の思考を超えていた。

 言葉にならないその輝きは、形もなく、重さもなく、ただ“在る”だけだった。それは観念として理解するものではなく、むしろ“感じることすら超えた何か”であった。

「これは……知覚ではない。だが、明らかに在る……」

 デカルトは瞑目したまま、内なる空間の奥に深く沈んでいった。

「その光は、“本質”と呼ばれるもののひとつの相です」と空海の声が、まるで夢のなかのように響いた。「真言密教では、それを“仏の智慧”と見ます。しかしその智慧は、知識や情報とは異なり、“在り方そのもの”として現れます」

「在り方……」

「はい。“知る”ための光ではなく、“在る”ための光。観照とは、その光に触れ、己が光の一部であることに気づく行為です」

 沈黙が降りた。

 それは単なる音の欠如ではない。むしろ、言葉を超えた“在るもの”が満ちる沈黙だった。

 しばらくして、空海はそっと印契をほどき、手を膝の上に戻した。

「これが、観照の最初の実践です。呼吸を通じて身体を整え、印契を通じて意識を結び、内なる光と出会う。これは修行ではありますが、何よりも“開かれる”であることが大切です」

 デカルトはゆっくりと目を開いた。

 目の前の空海の輪郭が、微かに光をまとっているように感じられた。だがそれは幻想ではなかった。彼の意識が変容し、世界の見え方そのものが変わっていた。

「私は……いま、少しだけ、“見ること”が変わったような気がします」

「それが、“観照”の始まりです」

 空海は立ち上がり、小堂の扉を開けた。

 外には、すでに午後の陽が差し込んでいた。木々の間を風が通り、葉がざわめく。鳥たちが枝から枝へと跳び移り、命が静かに巡っていた。

「世界は変わっていません。しかし、あなたが変わったのです」

「なるほど……」

「観照とは、世界を変えるのではなく、世界の“観じられ方”を変える力です。呼吸をし、印を結び、沈黙し、光と共にある。すると世界そのものが、沈黙のうちに語りはじめます」

 デカルトは頷いた。

「空海、私は、かつて“言葉”に真理を求めました。しかし、今は“語らぬもの”にこそ、真理が宿っているように思えてなりません」

「言葉は入口です。ですが、観照とはその奥へ進む道です。奥へ、さらに奥へ……言葉が途切れたところから始まる、音なき響きの世界。それこそが仏の示す“彼岸”なのです」

 風が吹いた。木洩れ日が一瞬、ふたりの間にきらめいた。

 そのとき、デカルトは微かに涙ぐんでいた。

「私は、これほどまでに沈黙が豊かなものだとは、思いもしませんでした」

「沈黙は、無ではありません。沈黙は、満ちています。声にならぬ祈りと、光と、慈しみと、世界のすべてが、その中にあるのです」

 空海は歩き出した。

 デカルトもまた、そのあとを静かに歩み始めた。

 そして、ふたりは再び森へと入っていった。

 呼吸をたずさえ、沈黙を従え、光とともに――。

 

つづく…

次回予告 「こころの座標(15)」第六章―⑤
 観照の彼岸 ―― 時間と空間の融解

深い沈黙の先で、ふたりはついに
“観照”の扉をくぐります。

そこは、光も影も、理性も祈りも、
すべてが溶け合い、ひとつに還る場所。

空海はその中心で、
宇宙そのものを抱くようなまなざしで語り、
デカルトは胸の奥に
これまで知らなかったやすらぎを見つけます。

次回、理性を超えたまなざしが開くとき、
ふたりの魂は観照の彼岸へ――。
心が世界とひとつになる瞬間を、どうぞお聴きください。

「こころの座標」観照の彼岸 ―― 時間と空間の融解 …ご期待下さい!

2025年08月23日(土) 21:00 公開

 

 

 

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お寺の住職をしております。 昨今よく耳にするのは、先祖代々の宗派がわからない、菩提寺が地方にあるため何年も供養をしたことが無い等でお困りの方が多くいらっしゃいます。 ご法事・供養でお悩みの方、水子供養・お祓いなどお気軽にお寺にご相談下さい。