【長編連載小説】 『こころの座標』 (21) 第7章 音と沈黙の曼荼羅—⑤

【長編連載小説】 『こころの座標』 (21) 第7章 音と沈黙の曼荼羅—⑤

(5)音と沈黙の曼荼羅

 迷宮を歩むデカルトの足取りは、次第に視覚的なものから聴覚的なものへと導かれていった。
 最初にそれが現れたのは、まるで空気そのものが震え出したかのような、澄んだ金属音だった。

 ──チーン。

 高くも低くもない、不思議な高さを持った音。
 彼が振り返ると、堂の隅に置かれたけいがわずかに揺れていた。
 しかし誰もそれを打った様子はない。
 音はただそこにあり、そして瞬時に空間全体に広がった。

 響きはすぐに消えた。
 だが、消えたはずの音が耳の奥にこだまし、胸郭を震わせ続けている。
 ──音が消えた後にも、音が在る。
 その不思議な体験に、デカルトは言葉を失った。

「……聞こえているのに、存在はしていない……」
 思わず洩れた声に、空海が応じる。
「音は消えていません。ただ“沈黙”へと移ったのです。
 沈黙は無ではなく、音の帰る場所なのです」

 デカルトは目を閉じ、沈黙に耳を澄ませた。
 すると、磬の響きの余韻の奥から、別の音が立ち上がった。
 低く、地の底から湧き上がるような法螺ほらがいの響き。
 その音は、空間だけでなく、彼自身の腹部にまで振動を送り込み、内臓が小刻みに揺れるように感じられた。

 やがて低音も消えると、完全な静寂が訪れた。
 だがその静寂は空虚ではなかった。
 むしろ、すべての音を包み込み、次の音を準備する母胎のような厚みを持っていた。

 ──音が沈黙に還り、沈黙が音を生む。

 デカルトの理性は、この連鎖をすぐに論理的な命題に置き換えようとした。
 だが同時に、論理では捕らえきれない「実感」が胸を支配していた。
 沈黙はただの「無」ではなく、音の潜在的な場である。
 まるで曼荼羅の余白が色彩を孕むように、沈黙は音を孕む。

 空海の声がその理解を導いた。
「あなたの思考も同じです。言葉は沈黙から生まれ、沈黙へと還ります。
 沈黙を忘れた言葉は力を失い、ただの殻となる。
 しかし沈黙を抱えた言葉は、響き続けます」

 デカルトの胸の奥に、過去の記憶がふと甦った。
 若き日に論文を書き上げた夜のこと。
 論証を終え、結論を書き記した瞬間、彼の心には誇りよりも虚脱感が広がった。
「私は本当に語り尽くしたのか? あるいは言葉の網に自分を閉じ込めただけではないのか?」
 その疑念は、当時の彼にとって不安の種であった。

 しかし、今や彼は理解しつつあった。
 言葉が語り得ない余白は欠陥ではなく、沈黙という曼荼羅の一部である。
 語られなかったものは欠落ではなく、沈黙に抱かれた可能性なのだ。

 再びけいが鳴った。
 今度は前よりも澄んだ音色が、曼荼羅の金色の部分を照らすように広がる。
 音が広がるごとに、金色の文様が光を帯び、ゆらめきながら変化していく。
 デカルトははっとした。
 ──音が曼荼羅の色を変えている。

 さらに、法螺ほらがいの低音が重なると、曼荼羅の群青の部分が深い渦を描き出した。
 色と音が呼応し、曼荼羅が「視覚の図」から「全身の響き」へと変貌していく。
 その瞬間、彼は理性ではなく感覚で理解した。
 曼荼羅は五感すべてを通じて歩むべき道なのだ、と。

「空海……私は耳で曼荼羅を歩いています。
 視覚ではなく、聴覚と沈黙で」

 空海はゆっくりと頷いた。
「曼荼羅は見るだけではありません。
 耳で聞き、皮膚で感じ、沈黙を受け取る──それらすべてが曼荼羅の一節です」

 デカルトは深く息を吐いた。
 堂内の空気は香木の甘さに満ち、そこに雨の湿り気が混じり合い、匂いまでも曼荼羅の一部となっていた。
 音と匂い、視覚と触覚が渾然一体となり、彼の理性はそれを「関係の全体」として理解しようとする。

 ──音が生じ、沈黙に還り、また音を生む。
 ──語られた言葉が沈黙に戻り、沈黙から次の言葉が芽生える。
 ──呼吸が吸われ、吐かれ、また吸われる。

 この循環のすべてが曼荼羅の「縁起」である。

 やがて雨脚が弱まり、堂内には再び深い静寂が訪れた。
 その静寂の中で、デカルトは己の心臓の鼓動をはっきりと聞いた。
 トン、トン、と一定の拍が響く。
 その拍動さえも曼荼羅のリズムに組み込まれ、堂全体と共鳴している。

 デカルトは静かに呟いた。
「私は、もはや孤立した耳ではありません。
 耳も心臓も呼吸も、この曼荼羅の響きの一部だ……」

 空海は目を閉じ、短く答えた。
「その気づきこそ、音と沈黙の曼荼羅です」

 デカルトの胸の奥に、静かな安堵が生まれた。
 そこには、もはや恐れも不安もなかった。
 ただ、自らの思考も言葉も呼吸も、音と沈黙の曼荼羅に抱かれているという確信だけが残っていた。

つづく…

 

 

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