小説 『心の座標』(6)第3章―②

(4)鏡としての身体――内観と感応の交差点

その晩、二人は山の庵に宿をとった。窓の外では虫の声が響き、山の夜気がしっとりと肌を包む。囲炉裏の火が赤く揺れ、空海は湯を沸かしながら言った。

「理性で世界を捉えようとすればするほど、“感じる”ことは後回しにされがちです。しかし、私は“感じること”のほうが、ずっと先にあるように思えてなりません」

デカルトはうなずいた。「私も、今ここに至るまでに、多くの“感じていたのに忘れていたこと”を思い出してきました。とくに、“内なる身体”の声に耳をすますということ……それは私にとって未知の道です」

「では、少し体験してみませんか?」

空海はそっと正座をし、目を閉じた。彼の姿勢には力みがなく、一切の揺らぎすらなかった。まるで、その場そのものが、彼の身体によって保たれているかのようだった。「目を閉じて、呼吸に意識を置いてみてください。無理に何かを考えようとせず、ただ息を感じるのです。胸が膨らみ、縮んでいく。その運動を、ただ感じる」

デカルトも真似て座し、目を閉じた。最初は落ち着かなかったが、しばらくすると、空気の動きが胸の内側に触れる感覚が確かにあった。微かな鼓動、衣擦れの音、囲炉裏の火の爆ぜる音――世界が身体の奥で静かに鳴っているようだった。

「これは……まるで、自分が“開かれた器”になったような感覚です」

「まさにその通りです」空海は目を開けた。「身体とは“閉じられた容器”ではなく、世界と繋がる開口部なのです。私たちは、常に世界に触れ、世界から触れられている。そしてその触れ合いが、私たちの“自覚”を生んでいるのです」

デカルトは目を開き、深く息を吐いた。「思考は直線的ですが、今のこの体験は、円環のようでした。始まりも終わりもなく、ただ、波のように感覚がめぐっていた……」

「その円環こそが、“感応”の原理です」空海はやさしく微笑んだ。「密教では、“観想”という瞑想法を通して、仏と自己を重ねていきます。そのとき、仏は遠くの対象ではなく、“私の身体”という鏡に映るものとなるのです」

デカルトは、思索の深みに潜るように言葉を継いだ。「では、身体とは、世界を映す“鏡”であり、同時にその鏡に映るものを選び取る“意志”でもあるのでしょうか」

意志さえも、身体に宿ります」空海は応じた。「たとえば、涙。悲しみが胸に生まれるとき、それは思考ではありません。胸が締めつけられ、目頭が熱くなり、涙が流れる。そのすべてが、“身を通して現れる心”です」

「つまり、思考が心のすべてではない……いや、むしろ“身体の動き”こそが、心を導いているのかもしれない」とデカルトが呟くように言った。

「そうです。思考は、往々にして後から来るものです。たとえば、合掌。両手を合わせることで、自然と心が整い、静まりを得る。身のかたちが、心のかたちを呼び出すのです」空海は、微笑んだ。

囲炉裏の火が、ゆらりと立ち上がった。ふたりの影が、壁にふたつの山のように映し出される。

「私はかつて、すべてを疑い、すべてを分けて考えることで、確実な真理に至ろうとしました」デカルトの声は、静かだった。「けれど、身体というこの“分けがたき存在”に触れれば触れるほど、むしろ“つながり”のほうが、真理に近いように思えてきました」

空海は深くうなずいた。「身体とは、外界と内界の交差点です。風の冷たさ、土の匂い、音の揺らぎ……それらすべてが、身体という一点を通して、心へと届く。だからこそ、身体は“私”であると同時に、“世界”そのものでもあるのです」

そのとき、外から一陣の風が吹き込み、ふたりの頬を撫でた。風鐸がかすかに鳴り、庵の中に微かな音が満ちた。

デカルトは目を細めた。

「まるで、世界が私に触れているようだ……。私が世界を観察しているのではない。世界が、私の身体を通して語りかけてくるようだ」

空海は静かに微笑んだ。

「それが“感応”です。自我とは、孤立した点ではなく、響き合いのなかにある線なのです」

火が静かに燃え、夜が深まっていった。デカルトの中には、いままで知識という網では掬い取れなかった“何か”が、確かに芽生え始めていた。それは、理性とは異なる、しかし理性に深く通じる“気づき”だった。

(5)分水嶺を越えて――理性と感得の統合

夜が明けると、山の空は澄みわたり、すべてが新しい色をまとっていた。朝露をまとった草が足元で光り、雲ひとつない空に陽が昇っていく。

空海とデカルトは、頂へと向かう山道を静かに登っていた。道は細く、苔むした石があちこちに顔をのぞかせている。その先には、古くから“分水嶺”と呼ばれる場所があった。

「この尾根を越えれば、川の流れは別の方向に分かれていきます」空海が立ち止まり、振り返った。「すべての水が、ひとつの源から生まれ、ここで異なる道を選ぶ。だがその先は、いずれ同じ海へと至るのです」

デカルトはしばしその言葉を味わった後、口を開いた。

「この旅を通して、私は自らの“哲学の分水嶺”に立たされていることを感じています。心と身体、思考と感受、理性と信……かつてはそれらを峻別することで明晰を得ようとしていました。だが今、私はそれらが一体となって響く“場”の存在に目を向けざるを得ません」

空海は頷いた。「分けることで見えてくるものもあります。しかし、分けきれぬものの中にこそ、本質がある。仏教の“空”の思想は、あらゆる事象が互いに依存し、成り立っているという理解です。つまり、関係そのものが実在なのです」

ふたりは分水嶺の頂にたどり着いた。そこは、小さな祠と一本の松が立つだけの静かな場所だった。風が抜け、あたりはしんとした空気に包まれていた。

デカルトは深く息を吸い込み、目を閉じた。身体のなかを風が通り抜けていくような錯覚があった。彼はやがて言った。

「私は、“考える私”だけが確かな存在であると信じていました。しかし今、“感じる私”“息づく私”“触れる私”のほうが、むしろ真実に近いとすら思える」

空海はその横顔を見つめながら、低くつぶやいた。「それは、あなたの“知”が、“いのち”へとほどけ始めた証です」

「“いのち”……」

デカルトはその言葉を静かに反芻した。

「それは私がこれまで一度も、真剣に考えたことのない言葉です。“いのち”は哲学の語彙ではなく、科学の対象でもなく、ましてや定義可能な概念でもない。けれど今、確かにそれを“ここ”で感じている」

彼は胸に手を当て、そっと拳を握った。そこには鼓動があった。理性では測れない、しかし確かに在る拍動――それが、すべての思考の前に、既に“ある”という事実だった。

空海は祠の前に歩み出て、手を合わせた。そして、ひとつの真言を唱えた。声は静かで、だが空気を震わせるように深く響いた。

「オン・バザラ・タラマ・キリク……」

デカルトはその声に、言語を超えた“波”のようなものを感じた。それは意味を伝える言葉ではなく、響きそのものが“触れてくる”声だった。

「言葉が、意味のためだけにあるのではないことが、ようやく理解できました」デカルトは言った。「私たちは、言葉で思考を整え、分析し、真理を探す。けれど、その裏側にある“響き”――それは、むしろ思考より先に、世界とつながる力なのですね」

空海はうなずき、ゆっくりと松の木に手を置いた。「密教では、すべての存在が“音”を持つと考えます。山も木も、風も水も、人間の身体も……それぞれが響き合いながら世界を織り成している。その響きに自らを合わせることが、すなわち“祈り”であり、“観照”なのです」

「では、理性とは……」

デカルトは問いかけた。

「理性もまた、響きの一部です」空海は答えた。「世界を整え、意味を与えるための偉大な力。しかし、それだけでは“いのち”は語りきれない。だからこそ、理性は時に“沈黙”と手を取り合わなければならないのです」

ふたりの沈黙の中、鳥が高く鳴いた。その音は、まるで空そのものが呼吸しているかのようだった。

デカルトはそのとき、心の奥でふと、ひとつの確信を得た。

「心と身体は、異なるものではなく、ひとつの現れである。理性と感受もまた、真理へ至る双つの扉である……そのどちらかを拒絶していた私に、あなたは“ひとつに開く方法”を示してくれた」

空海は微笑みながら、祠の背後に広がる大地を指差した。

「さあ、分水嶺を越えましょう。そこから先は、また新しい流れが始まります」

デカルトはうなずき、一歩を踏み出した。その一歩には、これまでの彼にはなかった“柔らかさ”があった。思考と感受が交わる地点。そこに立つことで、彼の哲学は、いまようやく、次の扉へと進み始めたのだった。

 

つづく…

 

次回投稿 哲学対話創作劇「心の座標」(7) 第4章
2025年07月12日(土) 21:00 公開

 

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