小説 『こころの座標』 (10) 第5章―②

第五章 理性と救いの交差点ー②

(3)祈りのかたち

 森を抜けると、小さな沢が流れる谷あいに出た。澄んだ水が岩の間を静かに走り、陽光が水面にチラチラと反射している。そこに一本の木橋がかかっていた。年季の入った丸太をいくつか組み合わせただけの簡素な橋だったが、丁寧に手入れされていることがわかった。

 空海は、橋のたもとに立ち止まり、ゆっくりと手を合わせた。祈るというより、ただそこにあるものすべてに敬意を表すような、静かで透明な所作しょさだった。

「それは、祈りか?」

 デカルトが後ろから尋ねると、空海は微笑をたたえたまま、ゆっくりと振り向いた。

「ええ。自然に対する、心の礼です」

「私は、神への祈りなら経験がある。しかし、それは救いを求める叫びのようなものだった。なぜあなたは、祈りに“願い”を込めないのか?」

「祈りとは、何かを得るためだけの手段ではありません。むしろ、祈るという行為そのものが、“救い”の在り方を変えていくのです」

 空海は、橋の上に一歩足を踏み出すと、そっと足元を見つめた。

「人は、自分の思い通りにならないとき、あるいは絶望の淵に立たされたとき、祈りを思い出します。ですが、本当の祈りとは、思いがけず訪れる“気づき”のようなものです。世界は自分の力で動かせるものではない。けれど、その中に在るということ自体が、すでに与えられている奇跡なのです」

 デカルトは、その言葉に戸惑いを隠せなかった。

「奇跡? 私にはそのような概念は扱いにくい。奇跡は、理性の領域を超えてしまう。観測できず、再現できず、立証もできないものを、どうして肯定できるのか?」

 空海は、橋の中ほどで立ち止まり、足元の水音に耳を傾けていた。

「奇跡とは、何か超常的な出来事のことではありません。それは、目を開いて見る者にとって、あらゆる瞬間が奇跡になり得るということです。たとえば、あなたがここに立ち、私と語り合っているこの時間。この出逢いもまた、充分すぎるほど奇跡的なことです」

 デカルトは、無言で橋に足を踏み入れた。踏みしめるたびに、木がかすかにきしむ。橋の上から見下ろすと、光の粒が水中の小石を照らしていた。

「私の祈りはいつも、対象が必要だった。神という絶対者への対話だった。だが、あなたの祈りには、対象があるようで、ない。祈っているのに、誰かに語りかけているようではない」

「仏教では、“仏”は実体ある存在ではなく、真理そのものとしての象徴です。私たちが手を合わせるとき、向き合っているのは“すべて”であり、同時に“無”でもあります。祈ることで、自己の輪郭を溶かし、世界の響きと一体になる。そういう感覚に近いかもしれません」

 デカルトは息を飲んだ。

「輪郭を溶かす、か……。私の思考は、輪郭を明確に描くことに費やされてきた。曖昧なものは排除し、明晰で判明なものだけを信頼してきた。だがその先には……孤独しかなかった」

 空海は静かに頷いた。

「理性は、確かに強い光です。しかし、光が強すぎると、周囲のやわらかな陰影が消えてしまうこともあります。仏教では、光と影の調和を“中道”と呼びます」

 ふたりは橋を渡り終えた。川の向こうに広がる森は、より深く、静寂に包まれていた。

「あなたの“祈り”には、何が残るのか?」

 デカルトの問いに、空海はゆっくりと答えた。

「祈りのあとに残るもの。それは、感謝です。何かを得たからではなく、生きていることそのものに対する感謝。苦しみがあっても、痛みが癒えなくても、そのすべてを抱えてなお、生かされていることへの感謝」

 デカルトは、ふと立ち止まって周囲を見渡した。鳥の声、川のせせらぎ、風に揺れる葉音――そのすべてが、沈黙のうちに満ちていた。

「祈りとは、言葉ではなく、耳を澄ますことなのかもしれない……な……」

「はい。そして、救いとは、その沈黙のなかで、ふと聞こえてくる音に、そっと頷けることかもしれません」

 その瞬間、遠くの木々の向こうから朝の光が差し込んだ。薄暗い森の一角がやわらかに照らされ、二人の影がその中に淡く揺れた。

 祈りとは、沈黙のうちにある心の姿勢。
 そして救いとは、それを生きる中で気づかされる、名もなき光。
 デカルトの胸に、今までにはない温もりが、ほんのわずかに芽生えようとしていた。

(4)信《しん》と理《ことわり》の交わるとき

 昼が近づくとともに、森を抜けたふたりは、草の匂いが立ち上る丘の上にたどり着いた。眼下には段々畑が広がり、ところどころに農家の屋根が見える。穏やかな風が吹き、鳥が低く旋回している。

 この穏やかな風景に、デカルトの心は不思議と落ち着いていた。言葉で追いきれない、確信にも似た感覚が胸に広がっていた。理性では捉えきれない何かが、ここにはある。その“何か”に、名前はつけられない。けれど、それは確かに存在していた。

 空海は風に揺れる草を見つめながら口を開いた。

「理性は、ものごとの違いを見分ける力です。善と悪、正と誤、真と偽。それによって、私たちは秩序を築いてきました。しかし、信は違います。信とは、見えないものを信じ、何かを分けるというより結び合わせていく力です」

「結び合わせる……か……」と呟くと、デカルトは空を仰ぎ見た。

「私は、真理を追い求めて、世界を細かく分けてきた。疑い、分け、考察し、理性の光を頼りに歩んできた。だが今、あなたの言葉を聞くうちに、理性の光では照らせない領域があるように思えてきた」

「はい。私たちの信仰は、そうした“照らしきれぬ場所”に立つことから始まります。仏はすべてを照らす光でありながら、同時に、言葉にはできない“闇”にも共に在ります」

 デカルトは黙ってその言葉を反芻した。
 哲学における理性とは、光そのものだった。曖昧を排し、論理を積み重ね、確かな土台を築く営み。だが、空海の言う“信”は、輪郭のあいまいな闇にも、温かく触れていく。

「私にとって、神は理性によって知られる存在だった。宇宙の秩序と目的、倫理の源としての存在。しかし、あなたの語る仏は、それとはまったく違うように感じる」

 空海は小さく頷く。

「仏は、対象ではありません。私たちの中に、そして関係の中に現れる“はたらき”です。祈り、沈黙し、歩み、迷いながら、ふとした時にその気配を感じる。それは定義されるものではなく、体験されるものなのです」

「すると、信とは“体験の哲学”とでも言うべきものか?」

「はい。理性が“知”であれば、信は“身”です。身体で感じ、時間をかけて育まれるものです」

 丘の上で風がまた吹いた。草がざわめき、ふたりの袂をそっと撫でた。

「私は長年、すべてを疑うことから真理に至ると思ってきた。だが、疑うことは世界を遠ざける作用もある。思考は深くなるが、触れることができない。信は、どうだろう? 世界に近づく道なのか?」

「信とは、“まなざし”です。世界を裁くのではなく、まっすぐに見る。そして、自分もまた世界の一部として見られていることに気づく。その瞬間、人は世界との結び直しを果たすのです」

 デカルトは思わず息をのんだ。

「それは……“赦し”に似ているな」

「ええ。理性は、罪を定めます。信は、それを抱きしめます。どちらも人に必要なはたらきです。ただし、どちらか一方だけでは、偏ってしまう」

「理性と信。思考と祈り。私の中では、ずっと別々のものだった。だが今、こうして語っていると、ふたつはどこかで出会うのではないかと思えてきた」

「はい、出会います。その交差点こそ、人間の〈心〉です」

 空海は草原の端に立ち、遠くの山を見つめた。

「私たちが仏を求めるとき、仏もまた私たちを照らしている。理性が問いを投げかけるとき、信は静かに応えている。その間を、往復することが“生きる”ということなのかもしれません」

 しばらくして、デカルトが小さく呟いた。

「私は、世界を知りたかった。そして、救われたかったのかもしれない。だがそれを認めるのが怖かった。理性だけでは届かない場所があると認めるのが、怖かったんだ」

 空海は穏やかに笑った。

「恐れもまた、救いの入口です。恐れずに疑うことと、恐れて信じることの両方を持つとき、人の歩みは深く、やさしくなります」

 風がやんだ。丘の上に、静寂が戻った。

 ふたりはしばらくそのまま立ち尽くしていた。
 言葉は尽きた。だが、その沈黙のなかにこそ、理性と信が触れあう微かな温度があった。
 それは、思想や宗派を越えて――ただひとりの人間として、別の人間の魂と出会う瞬間だった。

(5)交差点としての存在

 夕暮れが近づき、陽は西の山へと傾きつつあった。ふたりは丘を下り、古びた小堂のある静かな林にたどり着いた。苔むした石段が、風雨に削られながらもなおその形を保っていた。堂宇は木の香りに満ち、扉の奥からは微かに線香の煙が流れ出ていた。

 空海は黙ってその場に跪き、掌を合わせた。デカルトは一歩後ろに立ち、その姿を見守っていた。堂内の仏像には、装飾もなければ威厳もない。ただ静かに、慈愛をたたえた眼差しで人々を見つめていた。

「これが……あなたの“信”の象徴か?」

 デカルトの問いに、空海は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

「象徴、というより、“かたち”です。人は、かたちを通して、言葉にならないものに触れようとします。仏像は、救いそのものではなく、救いに向かう心の“道標”のようなものです」

 デカルトは目を細めて仏の顔を見つめた。どこか懐かしさすら感じさせる穏やかな表情だった。

「私は長く、神を“超越者”として捉えてきた。人間の理性を超えた完全な存在。だがこの仏像は……人間に近い。否、むしろ、“人”そのもののように見える」

「仏教では、仏とはすでに誰もの中にある可能性の光です。神のように上から導く存在ではなく、共に在る存在。だからこそ、人のかたちをとるのです」

「共に在る……」

 デカルトはその言葉を噛みしめるように繰り返した。自らの哲学は、“私”という思惟する主体に立脚していた。他者との関係も、まずは“私”の存在を出発点として考察されてきた。

 だが、空海の語る世界では、“私”と“他”がはじめから結び合わされていた。分離ではなく、交差。孤立ではなく、共存。

「人間は“交差点”そのものなのかもしれない」

 デカルトは、自らの胸に手を当てて言った。

「理性と感情、主体と他者、信と懐疑。すべてがここに交わっている。私は、それらを分類し、整理しようとしてきた。だが、その“交差”そのものを生きるという在り方があるとすれば……それは、救いのかたちかもしれない」

 空海は頷いた。

「真言密教では、人は“即身成仏”――この身このままで仏たりうる、と説きます。分離せず、対立せず、今ここに生きる自己を丸ごと抱きとめる。それが仏の道です」

「それは、理性の限界を認めることではなく、理性を超えて生かすということか?」

「そうです。理性は大切です。ただし、それが世界のすべてではないという気づきが、新たな“光”を導きます。理性がひとつの光ならば、信はもうひとつの光。そのふたつが交わるとき、人の〈心〉に柔らかな明かりがともります」

 堂の中から、ひと筋の香煙がゆらりと立ち上り、ふたりの間を通り抜けた。デカルトは、その香りの奥に、懐かしい思い出を感じた。母と姉が日曜に教会で祈っていたときのこと。彼は祈らなかったが、彼女たちの静かな姿に、なぜか安心していたことを思い出した。

「私は――ずっと、救いを拒んでいたのかもしれない」

 ぽつりと、デカルトがつぶやいた。

「求めることで、弱さを認めることになると思っていた。だが、もしかすると救いとは、強さの中にあるのではなく、弱さを受け入れる心のなかに芽生えるものかもしれない」

「弱さを受け入れることで、私たちは他者に手を差し出せます。分かりあえぬという前提から始めるのではなく、分かちあえる可能性を信じて、向き合うことができます」

 空海は、堂の前に小さな供物を置いた。花と、丸い石がひとつ。

「これは?」

「ただの石です。けれど、この場所に置くことで、誰かが“在った”という証になります。言葉にはならずとも、思いがそこに残り続けるのです」

 デカルトはその石を見つめた。重くもなく、軽くもない。何の意味も持たない石。だがその“無意味”こそが、すべてを受け入れる静けさを宿していた。

「この旅が終わったら、私は再び世界へ戻るだろう。哲学者として、また思考の道を歩むだろう。だが……この沈黙を、忘れることはない」

「それで充分です。理性は問い続け、信は待ち続けます。そしてそのどちらも、あなたの中で息づいていくのです」

 陽が完全に傾き、堂の屋根に長い影を落とした。森の奥からは鹿の声が聞こえ、どこか遠くの村で鐘の音が響いた。

 ふたりは並んで立ち、しばらく風に吹かれていた。

 それは言葉でも祈りでもなく、ただ“存在”として交わる時間だった。
 理性と救い、その交差点に、自分という場所があると感じながら――

 

つづく…

 

次回投稿 小説「こころの座標」(11)ーー 第6章 霊性と観照
2025年07月26日(土) 21:00 公開

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お寺の住職をしております。 昨今よく耳にするのは、先祖代々の宗派がわからない、菩提寺が地方にあるため何年も供養をしたことが無い等でお困りの方が多くいらっしゃいます。 ご法事・供養でお悩みの方、水子供養・お祓いなどお気軽にお寺にご相談下さい。