【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (9) 第2章 山中の霊気—②

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』 (9) 第2章 山中の霊気—②

読了時間(約5分)

(2)未来仏の微笑

 蓮華の上に現れたその姿は、ただ人間の形をとっているだけであった。
けれども、空海の眼にはそれが「未来そのものの顕現」としか映らなかった。
 衣は光を織り込んだように柔らかく、風に揺れるたびに色合いを変えた。
 ――ときに白銀。
 ――ときに淡い桃色。
 ――やがて黄金の輝きへと移り変わる。
 ――まるで光が時を循環させているようだった。

 空海は言葉を失っていた。祈りを捧げるべきか、それともただ見つめていればよいのかさえ、判断できなかった。
 胸の奥が熱を帯び、脈が速くなった。彼は自然と合掌し、額を地に近づけた。

「弥勒菩薩……未来を約束する仏よ」

 声は震え、霧の中に溶けた。

 そのとき、森がざわめいた。
 木々の葉が小刻みに鳴り、地が低く唸った。水の音が遠くから響き、まるで大地が彼の言葉に呼応しているようだった。
 だが弥勒は何も語らなかった。微笑だけが、霧の中で静かに輝いていた。

 その沈黙には、重みがあった。
 空海は、自身の呼吸が音となって響くのを感じた。吸う息と吐く息のあいだに、世界全体の呼吸が重なる。
 霧はそのリズムに合わせて脈動し、山がゆっくりと鼓動しているようだった。

 その時、胸の奥に声が響いた。
 それは外からではなく、内から聞こえる声。

 ――「慈悲は、未来に咲くものではない。いまの中に根を張り、やがて時を越えて花開くのだ。」

 空海は目を見開いた。
 弥勒は依然として沈黙していた。声は彼から出たのか、それとも自分の心から響いたのか、わからなかった。
 だが確かに、心の奥で何かが動いた。

「未来とは何でしょうか」
 ようやく声を出したとき、空気が震えた。
「人は……“未来の救い”を語ります。だが飢えに苦しむ者、戦に泣く者にとって、未来はあまりに遠い。
 未来の花が咲くころ、彼らはもうここにいない。では、その慈悲は誰のためのものなのですか……」

 彼の声は、まるで山そのものに問うように響いた。
 霧がゆっくりと動き、弥勒の周りに円環を描いた。

 弥勒はなお微笑を崩さなかった。
 光が彼の指先から広がり、空気の粒が金色に染まった。その光が空海の胸に触れた瞬間、心臓が強く脈を打った。

 ——「未来の花は、いま流された涙の上に咲く。涙は土を潤し、慈悲はそこに根を張る。苦しみなくして、未来の慈悲は育たぬ。」

 その声が心に響いたとき、空海の頬に一筋の涙が落ちた。
 熱くも冷たくもない、不思議な涙だった。

 弥勒の表情が、わずかに変わった。
 微笑の角度が、ほんの少しだけ深くなった。それだけで、空気のすべてが変わった。
 風が吹き、霧が彼らを取り巻くように流れる。光は渦を描き、世界が一つの円環となって息づいていた。

 空海は、弥勒の沈黙が言葉以上の説法であることを悟った。
 この微笑は、未来への約束ではない。
 「いまこの瞬間の理解」が、すでに未来を成就させているのだ。

 彼は胸に手を置き、低く問うた。
「もしそうならば……我々が“いま”に行う祈りや言葉は、どこへ届くのでしょうか。未来を変えることはできるのですか?」

 弥勒は答えない。だが、霧が再び金色に輝いた。
 霧の粒が無数の線となり、彼の頭上で曼荼羅のような形を作った。中心には、淡い白光があった。

 ――「未来は、そなたの祈りに呼応する鏡である。祈りは遠くへ飛ぶのではない。鏡に触れ、形を変え、再び“いま”に還ってくる。」

 その声を聴いたとき、空海の呼吸が深くなった。
 未来とは遠い彼方ではなく、現在の延長線上にある“もうひとつの現在”――彼はそう理解した。

 沈黙が訪れた。
 だが、その沈黙は恐ろしくはなかった。むしろ温かく、包み込むようだった。

 足元の土が光を帯び、そこから草が芽吹いていた。霧の中の冷たい土地に、いつのまにか命が宿っている。弥勒はそれを見つめ、再び微笑んだ。

 空海は気づいた。
 慈悲とは、人を救うための力ではなく、世界を静かに支える“気配”なのだと。
 花が咲くのを誰も見なくても、香りは確かに広がる。見えない霧の中でも、呼吸するものすべてに光は届く。

「未来は、約束ではなく責任……なのですね……」
 空海は呟いた。
 弥勒は微笑のまま、まぶたを閉じた。その沈黙は肯定のようでもあり、祝福のようでもあった。

 やがて風が起こり、光の曼荼羅が崩れた。霧は森の奥へ流れ、弥勒の姿も薄れていく。
 その瞬間、空海の胸の中に柔らかな温もりが灯った。
 それは外の光ではない。心の内に生まれた、小さな炎のような光。

 弥勒は最後に一度だけ目を開いた。
 その眼差しは、「未来は任せた」と語っているようだった。

 空海は深く頭を垂れた。
「私は、この光を携えて歩きます。いまを生き、未来を育てる者として」

 彼が顔を上げたとき、弥勒の姿は消えていた。だが、空の彼方で雲が裂け、一筋の光が降り注いだ。

 その光は一瞬で霧を貫き、彼の影を長く伸ばした。
 その影は、山を越え、谷を渡り、まるで未来のどこかへ続いているようだった。

 空海はその影を踏みしめながら、胸の奥で静かに言った。
「未来仏の微笑――それは、沈黙の中で聞こえる最も深い言葉だ。」

 霧が彼の肩を包み、山の奥で鐘のような音が響いた。
 それは祈りの終わりではなく、始まりの音だった。

つづく…

 

【次回予告】
「その慈悲は、誰のためのものか──」

夜明けの霧が晴れ、山の庵に再び静寂が戻るころ、空海とデカルトのあいだに、ひとつの問いが立ち上がる。
「慈悲とは、自己の救いか、それとも他者への贈与か?」

空海は、菩薩が流す涙の意味を語る。
その涙は、単なる悲しみではなく、“願いの姿”であると。
一方、デカルトは「慈悲」という言葉の輪郭を測ろうとし、論理の器に収めようと試みる。

だが、理性が掬い切れぬ「無名の痛み」や「誰にも届かぬ叫び」が世界には確かに存在する。
──では、そうした“届かぬもの”に向けて祈る意味とは何か?
その問いが、空海の霊性と思索の底からふたたび浮かび上がる。

静かに語られるのは、かつて空海が出会った“一人の無言の尼僧”の話。
彼女が最後に遺した、言葉ではない“身ぶり”が、慈悲の成就を問い返す。

その身ぶりとは──祈りの形をした問い。
そして、答えではなく、「問いを保ち続ける手」が慈悲の核心だという仮説。

理性はその“手”をどう受け止めるのか。
霊性はその“問い”をどう抱き続けるのか。

「慈悲の成就」は、実在するか?
それとも、未完のまま“結び直され続ける祈り”なのか──。

哲学者と僧侶の対話は、言葉を超え、「姿勢」へと至る。
そのとき、未来仏の微笑が、ふたたび二人を見つめ返す。

どうぞお楽しみに…

【長編連載小説】 『こころの座標』(10)外伝:失われた時間の旅
第2章 弥勒との未来問答 慈悲の成就をめぐる問答ー③
2025年11月19日 21:00 公開

 

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