小説 『こころの座標』 (11) 第6章―①
霧が谷を満たしていた。白く、冷たく、すべてを覆い隠すように。木々の輪郭も、足元の岩のかたちも、まるで夢の中のようにぼやけていた。
そのなかを、デカルトと空海は黙して歩いていた。言葉はなかった。 いや、言葉は必要なかったのかもしれない。霧の静けさは、言語が入り込む余地を与えない。風も止み、ただ足音と、衣ずれの音だけが、時間の底をゆっくりと流れていた。
霧が谷を満たしていた。白く、冷たく、すべてを覆い隠すように。木々の輪郭も、足元の岩のかたちも、まるで夢の中のようにぼやけていた。
そのなかを、デカルトと空海は黙して歩いていた。言葉はなかった。 いや、言葉は必要なかったのかもしれない。霧の静けさは、言語が入り込む余地を与えない。風も止み、ただ足音と、衣ずれの音だけが、時間の底をゆっくりと流れていた。
森を抜けると、小さな沢が流れる谷あいに出た。澄んだ水が岩の間を静かに走り、陽光が水面にチラチラと反射している。そこに一本の木橋がかかっていた。年季の入った丸太をいくつか組み合わせただけの簡素な橋だったが、丁寧に手入れされていることがわかった。
デカルトの声は、どこか必死だった。
「人は誤って判断し、欲望に惑い、不完全な理解によって痛みを生む。だとすれば、正しく思考すれば、苦しみも乗り越えられるはずだ」
空海は、しばし黙してその言葉を味わうようにしてから言った。
「理性は、迷いの霧を照らす灯火です。しかし、届かぬ深みもあります」
「届かぬ深み?」
「そうです。たとえば幼子を失った母の涙。それを、理屈で癒せるでしょうか?」
午後の陽が傾きはじめたころ、ふたりは庵を出て、小径を歩いていた。樹々の間から漏れる光は斜めに伸び、葉に映った影はゆらゆらと揺れている。空は高く、蝉の声が遠くから聞こえていた。
夜が静かに明けようとしていた。山の斜面には濃い霧が立ちこめ、あらゆる輪郭を白くぼかしている。草木は微かに濡れ、ひとつひとつの葉に夜露が宿っていた。風はない。全てが沈黙のなかに在った。
その晩、二人は山の庵に宿をとった。窓の外では虫の声が響き、山の夜気がしっとりと肌を包む。囲炉裏の火が赤く揺れ、空海は湯を沸かしながら言った。
「理性で世界を捉えようとすればするほど、“感じる”ことは後回しにされがちです。しかし、私は“感じること”のほうが、ずっと先にあるように思えてなりません」
デカルトはうなずいた。「私も、今ここに至るまでに、多くの“感じていたのに忘れていたこと”を思い出してきました。とくに、“内なる身体”の声に耳をすますということ……それは私にとって未知の道です」
「では、少し体験してみませんか?」
空海はそっと正座をし、目を閉じた。彼の姿勢には力みがなく、一切の揺らぎすらなかった。まるで、その場そのものが、彼の身体によって保たれているかのようだった。「目を閉じて、呼吸に意識を置いてみてください。無理に何かを考えようとせず、ただ息を感じるのです。胸が膨らみ、縮んでいく。その運動を、ただ感じる」
小川のせせらぎが、山の静寂に染み入るように響いていた。空海とデカルトは、その細流に沿ってゆっくりと歩いていた。木々は高くそびえ、葉のすき間から光が斜めに差し込み、水面を煌めかせている。
「この流れる水を“わたし”と言えるだろうか」
ふいに立ち止まった空海が、声を落とすようにしてつぶやいた。
デカルトは眉をひそめた。「水は、確かに形を変えながら流れている。しかし、我々の“自我”は、そうした流動的なものではなく……理性的な主体として、思考することで確かな輪郭を得るものだと、私は考えてきました」
空海は黙ってうなずく。だがその表情には、どこかやわらかな違和感がにじんでいた。
「では、問いましょう……」空海は再び口を開く。
1)沈黙のあとに芽吹く問い
朝露が大地を潤し、草の匂いが空気に溶け込んでいた。
デカルトは霧を抜け、空海と別れたその先の道を一人り踏みしめるように歩いていた。
草原のなだらかな起伏を越え、まだ見ぬ地へと足を進めていた。
かつての彼ならば、あらゆる景色に論理を与え、法則性を見出そうとしただろう。
しかし今、彼の目に映る世界は、理性の対象ではなく共にある風景として現れていた。
朝日が差し込む。光が葉に反射し、万物が呼吸しているようだった。
(3)沈黙の対話 デカルトは、しばし瞑目した。 思考を止めようとしたわけではなかった。ただ、あまりにも多くの情報が言葉にならぬまま押し寄せていたからだ。 空海の語る「空」という概念――それは彼の哲学の前提に、静かだ…
世界は、どこから始まるのだろうか。 霧の中で自分の“在り処”を見失いそうになる瞬間、ふと「私はほんとうに“ここ”にいるのか」と問いが立ち上がる。 理性の力で世界を切り拓こうとしたデカルト。 沈黙の中に真理を観じ、生きることそのものを仏法とした空海。 対極にあるかに見えるふたりは、実は同じ問いを抱えていた。 ――「この“心”とは何か?」 そして、過去でも未来でもない、「今・ここ」にだけ開かれた霧の高原。 ふたりは時空の裂け目に導かれるように出逢い、対話を始める。