【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(19)第3章 戦場の影と幻影の師 信仰と理性の亀裂―⑤
戦場を抜けたあとも、デカルトの内側では、何かが静かに軋み続けていた。
それは痛みではない。
だが、無視すれば確実に広がっていく種類の違和感だった。
幻影の師との対峙を経て、理性は沈黙し、再び歩き出した。
そのはずだった。
だが、歩き出した先で、彼は思いがけない壁に突き当たっていた。
――信仰。
その言葉が、これほど重く感じられたことはなかった。
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戦場を抜けたあとも、デカルトの内側では、何かが静かに軋み続けていた。
それは痛みではない。
だが、無視すれば確実に広がっていく種類の違和感だった。
幻影の師との対峙を経て、理性は沈黙し、再び歩き出した。
そのはずだった。
だが、歩き出した先で、彼は思いがけない壁に突き当たっていた。
――信仰。
その言葉が、これほど重く感じられたことはなかった。
霧が薄れたあとも、戦場は静かではなかった。
音は戻っていたが、それらはすべて距離を伴っていた。
叫びも、命令も、嘆きも――どれもが直接届かず、空気の層をいくつも越えてから耳に触れる。
デカルトは歩いていた。
第3節で立ち止まった場所を離れ、再び前へ進んでいる。
だが、その歩みは以前とは違っていた。
世界を把握しようとする視線ではなく、世界に身を委ねながら確かめるような歩みだった。
戦場を歩きながら、デカルトは気づいていた。
自分の内側で、何かが静かに止まり始めている。
それは恐怖ではなかった。
絶望でもない。
ましてや諦めではない。
――思考そのものが、言葉を失い始めている。
これまで、彼は世界を「理解できるもの」として扱ってきた。
疑い、分解し、再構成する。
理性とは、混沌を秩序へ変換する装置であり、人間が世界に対して持ちうる最も確かな武器だと信じてきた。
だが、いま彼の前に広がる光景は、その装置の外側にあった。
戦場の中央から少し離れた場所には、奇妙な静けさがあった。
剣戟も怒号もすでに遠く、ここにあるのは、命がゆっくりと失われていく音だけだった。音と言っても、耳で捉えられるものではない。呼吸が擦れる感触、血が土に染み込む気配、身体の熱が冷えていく時間――そうしたものが、重なり合って空気を満たしていた。
デカルトは歩いていた。
第1節で見た死者たちの影は、まだ網膜の奥に焼き付いている。だが、ここでは死はすでに終点ではなかった。終わりきれない命が、低く、しかし確かに呻いている。
最初に届いたのは、音ではなかった。
匂いだった。鉄が湿った空気に溶け、血の生臭さが土の匂いと絡み合い、そこへ焦げた木の残り香が重なっている。戦が終わったはずの場所が、まだ終わりきっていないことを、匂いだけが雄弁に語っていた。
デカルトは歩みを止め、息を浅く吸った。肺の内側がざらつく。風に乗った灰が喉の奥へ貼りつくようだった。遠くで旗布がはためく音がする。だがそれは勝利の鼓舞ではなく、空虚な布の擦過音にすぎない。音はあるのに、生がない。そういう感触があった。
視界の先で、大地が黒く染まっていた。草は踏み荒らされ、ぬかるんだ土には無数の足跡と轍が刻まれている。
霧がふたたび濃くなり、空海と弥勒を包み込んだ。
先ほどまでの曼荼羅の幻視は消え去り、世界はただ白と灰のあわいに沈んでいた。
だが、空海の胸には確かな余韻が残っていた。
弥勒の逆問に答えたとき、自らの内奥に「未熟さ」と「歩むべき道」の両方を同時に感じ取ったからだ。
彼は息を整え、ゆっくりと目を開いた。
そこに立つ弥勒は、ただ静かに微笑んでいた。
もはや言葉はなく、眼差しだけが彼に注がれていた。
霧はゆるやかに流れ、空海と弥勒を包み込んでいた。
先ほどまでの幻視は消え去り、再び静かな山中の空間へと戻っていた。しかし、空海の胸にはなお揺らぎが残っていた。弥勒が示した未来の慈悲、現在の苦悩の意味……それらを理解したつもりでいても、内側には解けきらない硬い石のような違和感が沈んでいた。
未来に成就する慈悲は理解した。
現在の苦悩を抱えながらも、小さな種を守り育てることの意味も、確かに受け止めた。
――しかし、それだけでは足りないのではないか。
その「足りなさ」は、空海が長年抱えてきた葛藤の根に触れるものだった。見えない誰かのために祈る。それは尊い。しかし、どれほど祈っても人々の飢えや争いはなくならない。祈りは確かに灯火だが、今の暗闇をすべて照らせるわけではない。
彼自身の心が、それを知っていた。
夕陽は、港の西に沈みかけていた。
光は黄金色の帯となって、屋根の瓦と海面のあいだをゆっくりと渡っていく。
昼の喧騒は静まり、町にはわずかな波音と風の笛だけが残った。
デカルトは宿の軒先に腰を下ろし、掌の上に一枚の紙を広げていた。
その紙には、旅のあいだに描き続けてきた十字と円、そして幾つかの線が重なっている。
けれどそれは、もはや哲学の図でも、神学の図でもなかった。
ただの「歩みの記録」――呼吸の跡であり、出会いの形だった。
空海と別れてから、すでに幾日かが過ぎた。
霧に包まれた空間は、静寂を極めていた。 空海の胸には弥勒との対話の余韻が残りつつも、同時に新たな葛藤が渦巻いていた。
未来に成就する慈悲――その真理の響きは確かに胸を震わせた。
だが、彼の眼には飢えに苦しむ人々、涙を流す者たちの姿が焼きついて離れなかった。
空海は一歩、弥勒に近づいた。
「未来の光が約束されているとしても、いま苦しむ者にとって、その光は遠すぎます。
今日を生き抜けない命にとって、未来は閉ざされている。
どうすれば私は、この矛盾と向き合えるのでしょうか……」
声は震えていたが、迷いではなく切実さが込められていた。
夜の海は、音を選んでいた。
波が砕ける白は遠くで静まり、近くでは砂の粒を転がすささやきだけが残る。港の鎖は鳴らず、灯台のレンズは油の匂いを呼吸のように出し入れしながら、一定の角度で光を配っていた。
デカルトは砂州の端に立ち、灯の回転が闇の皮膚に描く輪郭を目で追った。光は「ここ」と「いま」を一瞬だけ濃くし、すぐに引き、また別の場所を濃くする。世界が、同時にいくつもの現在を持っている――そんな錯覚でもあり、気づきでもあった。