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小説『こころの座標』(15)第六章 観照の彼岸

小説 『こころの座標』 (15) 第6章―⑤

 太陽が高く昇ると、木々の影は縮まり、地面に淡い光の網を編み始めた。風は静かに吹き、葉の一枚一枚がまるで呼吸するように、わずかに震えていた。
 空海とデカルトは、深い杉林を抜けた先の岩場に辿り着いていた。そこは谷を見下ろす断崖の縁であり、遠くに水音が響いていた。
「ここは、“時”が止まる場所です」
 空海の声は、風の音に溶けるように柔らかかった。
「止まる……? 時間が?」
「いえ、“止める”のではありません。“融ける”のです。時間は直線ではなく、感じられ方なのです。観照の深まりに従って、時間も空間もその性質を変えていきます」

小説『こころの座標』(14)第六章 観照の彼岸 

小説 『こころの座標』 (14) 第6章―④

山を越えた風が、梢をざわめかせていた。
 雲が流れ、木洩れ日が斑まだらに差し込む林のなか、ふたりは苔むした小堂の前に立っていた。
「ここは、かつて私が一人で瞑想を重ねた場所です」
 空海がそう言って、そっと堂の扉を押し開けた。中は簡素だった。木の床、壁にかけられた法輪、そして中央にはわずかな灯明。だがそこには、言葉では言い表せぬ静寂が満ちていた。
「デカルト。今ここで、観照の実践を共にいたしましょう。これは“思惟”ではなく“経験”の次元です。理性を超えて、響きそのものと交わる道です」

小説『こころの座標』(12)第六章ー②

小説 『こころの座標』 (12) 第6章―②

朝霧がわずかに晴れた山道を、ふたりは再び歩いていた。
 谷に沿って流れる小川のせせらぎは、まるで内なる声のように、静かに彼らの耳に届いていた。鳥の声は空に溶け、光はまだらに木漏れ日となって足元を照らしていた。けれど、デカルトの心はその風景とは異なる、深い内奥へと向かっていた。
「空海……」
「はい」
「私は昨夜、夢の中で“私”が消えていく感覚を味わいました。顔が消え、手が消え、最後には存在そのものが霧に溶けた……。だが、不思議と恐ろしくはなかった」

小説『こころの座標』(11)第六章―①

小説 『こころの座標』 (11) 第6章―①

 霧が谷を満たしていた。白く、冷たく、すべてを覆い隠すように。木々の輪郭も、足元の岩のかたちも、まるで夢の中のようにぼやけていた。
 そのなかを、デカルトと空海は黙して歩いていた。言葉はなかった。 いや、言葉は必要なかったのかもしれない。霧の静けさは、言語が入り込む余地を与えない。風も止み、ただ足音と、衣ずれの音だけが、時間の底をゆっくりと流れていた。

小説『こころの座標』(9)第五章―①

小説 『こころの座標』 (9) 第5章―①

 デカルトの声は、どこか必死だった。
「人は誤って判断し、欲望に惑い、不完全な理解によって痛みを生む。だとすれば、正しく思考すれば、苦しみも乗り越えられるはずだ」
 空海は、しばし黙してその言葉を味わうようにしてから言った。
「理性は、迷いの霧を照らす灯火です。しかし、届かぬ深みもあります」
「届かぬ深み?」
「そうです。たとえば幼子を失った母の涙。それを、理屈で癒せるでしょうか?」

小説『こころの座標』(5)第三章―①

小説 『心の座標』(6)第3章―②

その晩、二人は山の庵に宿をとった。窓の外では虫の声が響き、山の夜気がしっとりと肌を包む。囲炉裏の火が赤く揺れ、空海は湯を沸かしながら言った。
「理性で世界を捉えようとすればするほど、“感じる”ことは後回しにされがちです。しかし、私は“感じること”のほうが、ずっと先にあるように思えてなりません」
デカルトはうなずいた。「私も、今ここに至るまでに、多くの“感じていたのに忘れていたこと”を思い出してきました。とくに、“内なる身体”の声に耳をすますということ……それは私にとって未知の道です」
「では、少し体験してみませんか?」
空海はそっと正座をし、目を閉じた。彼の姿勢には力みがなく、一切の揺らぎすらなかった。まるで、その場そのものが、彼の身体によって保たれているかのようだった。「目を閉じて、呼吸に意識を置いてみてください。無理に何かを考えようとせず、ただ息を感じるのです。胸が膨らみ、縮んでいく。その運動を、ただ感じる」