【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(21)第4章 阿修羅の涙 涙の波紋——②

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(2)涙の波紋

 朝の光は、あまりにも静かに訪れた。

 夜を裂くような強さではなく、ただ、闇の輪郭を少しずつ薄めていく柔らかな明るさ。
 山の岩肌は淡く色づき、苔は露を含んで微かに輝いている。

 空海は、まだその場に立っていた。
 阿修羅が消えた岩場。
 涙が落ちたはずの地面。
 しかし、そこには何の痕跡も残っていない。

 濡れた跡も、裂け目も、光の粒もない。
 まるで、何も起こらなかったかのようだった。

 だが、空海は知っていた。
 何も残らない出来事ほど、深く残ることを。

 胸の奥に、重さがある。
 それは怒りではない。
 悲しみでもない。

 名を与えるなら――
 引き受けてしまった重さだった。

 阿修羅の涙は、彼自身の涙ではない。
 それでも、確かに空海の内側へ入り込んでいる。

 他者の痛みが、境界を越えて、静かに根を下ろしていく感覚。

 空海はゆっくりと息を吸い、吐いた。
 呼吸は変わらない。
 だが、呼吸の奥にある沈黙が、以前とは違っていた。

 世界の怒りを、少しだけ知ってしまった沈黙。

 山の下方から、鳥の声が聞こえてきた。
 最初の一羽。
 それに続く、もう一羽。
 やがて、いくつもの声が重なり、朝の気配を満たしていく。

 生命は、何事もなかったかのように始まる。
 それが、救いでもあり、残酷でもある。

 怒りが涙へ変わる出来事があっても、世界は立ち止まらない。

 戦も、飢えも、不正も、変わらず続いていく。

 空海は、ゆっくりと歩き出した。
 岩場を離れ、細い山道へ戻る。

 足元の土は柔らかく、昨夜の露がまだ残っている。
 一歩ごとに、微かな湿り気が足裏に伝わった。

 その感触が、現実を確かめさせる。

 ――ここは夢ではない。
 ――涙もまた、現実だった。

 山道を下りながら、空海は思い出していた。
 阿修羅の最後の表情。
 怒りを失ってはいない。
 だが、怒りだけでもなくなった顔。

 涙を知った怒り。

 それは、かつて彼が出会ったどの修行者とも違う姿だった。
 悟りではない。
 救済でもない。

 それでも、確かに――世界が少しだけ変わる方向を示していた。

 そのとき、風が吹いた。
 朝の冷たい風ではない。
 どこか温度を含んだ、柔らかな風。

 空海は足を止めた。

 風の中に、わずかな震えを感じた。

 音ではない。
 言葉でもない。

 だが確かに、何かが揺れている。

 山の木々でも、空でもない。
 もっと遠く――人の集まる場所の方角から。

 空海は目を閉じた。
 意識を澄ませる。

 すると、微かな気配が重なって届いてきた。

 怒り。
 嘆き。
 叫びにならない声。

 昨夜、岩場で触れたものと、同じ質の震えだった。

 阿修羅の涙は、一つの出来事で終わっていない。

 それは、世界のどこかで続いている感情と、静かに繋がっていた。

 空海は、ゆっくりと目を開いた。

 朝の光は変わらず穏やかだ。
 鳥は鳴き、風は流れ、山は何も知らぬ顔で立っている。

 それでも彼は理解した。

 涙は、一人のものではない。

 怒りがある限り、涙もまた、世界のどこかで生まれ続ける。

 そして――
 その涙に触れてしまった者は、もう、元の沈黙には戻れない。

 空海は再び歩き出した。
 ゆっくりと、確かに。

 その歩みは、巡礼ではない。
 修行でもない。

 世界の痛みの方へ向かう歩みだった。

 山道を下るにつれ、空気の匂いが変わっていった。
 湿った苔と土の香りに混じり、どこか人の営みを思わせる煙の匂いが漂い始める。

 やがて視界の先に、粗末な集落が現れた。
 山裾に寄り添うように並ぶ数軒の家。
 屋根は歪み、壁はひび割れ、それでも崩れずに残っている。

 生活が、辛うじて続いている場所だった。

 空海は足を緩め、静かに村へ入った。
 誰も彼に気づかない。
 あるいは、気づいても声をかける力が残っていない。

 戸口に座り込む老人。
 水を運ぶ途中で立ち尽くす女。
 泣くこともできず眠る子ども。

 そこにあるのは、激しい悲嘆ではない。
 むしろ、悲しみすら擦り切れたあとの沈黙だった。

 だが、空海は感じ取った。
 この沈黙の奥に、かすかな震えが潜んでいることを。

 怒り。
 しかし、声を持たない怒り。

 昨夜、岩場で触れたものと、同じ質の感情だった。

 村の中央に、小さな祠があった。
 崩れかけた石の台に、名も分からぬ神像が置かれている。

 供え物は乾き、花は色を失い、祈りの痕跡だけが残っていた。

 空海は、その前で足を止めた。
 合掌はしない。
 ただ、静かに立つ。

 祈りが失われた場所に、言葉を置くことはできない。

 そのとき、背後から小さな足音がした。

 振り返ると、幼い子どもが立っている。
 痩せた頬。
 だが、目だけは不思議に強い光を宿していた。

 子どもは、何も言わない。
 ただ、空海を見上げている。

 その視線に、空海はわずかな違和を覚えた。

 恐れでも、好奇でもない。
 問いに似た沈黙。

 子どもはやがて、小さく口を開いた。

「……どうして……
 泣いちゃいけないの?」

 空海は、息を止めた。

 それは、昨夜の阿修羅の涙と、確かに繋がる問いだった。

 誰が、泣くことを禁じたのか。
 何が、涙を止めているのか。

 村の大人たちは、泣いていなかった。
 泣けないのか、泣いても意味がないのか、それとも泣く力さえ失ったのか。

 空海は、すぐには答えなかった。
 答えを急げば、この問いの重さを壊してしまう。

 代わりに、ゆっくりと膝を折り、子どもの目の高さまで身を下ろした。

「……泣いてもよい」

 静かな声だった。
 だが、確かに届いた。

 子どもの瞳が、わずかに揺れる。

「……でも……みんな……泣かない……」

 その言葉に、村の沈黙の意味が、初めて形を持った。

 泣かないのではない。
 泣けないのだ。

 涙を流す余白が、日々の重さに押し潰されている。

 空海は、胸の奥で昨夜の光景を思い出した。
 怒りを抱え続けた存在。
 涙へ至るまでの、長い沈黙。

 ここにも同じものがある。
 だが、誰もそれを見届けていない。

 空海は、そっと言った。

「……涙は、弱いから流れるのではない」

 子どもは、瞬きをした。

「……重すぎるものを、心が一人で抱えきれなくなったとき、初めて……流れるのだ」

 言葉は、教えではない。
 昨夜見た真実の、静かな写しだった。

 子どもの目に、透明な光が浮かんだ。

 だが、まだ落ちない。
 落ちることを、どこかでためらっている。

 空海は、その小さな揺れを見守った。
 急がない。
 導かない。

 ただ、涙が生まれる瞬間のそばに立つ。

 それだけで十分だと、昨夜、知ったばかりだった。

 村の上空を、朝の風が通り抜ける。
 乾いた空気が、わずかに柔らいだ。

 見えない場所で、何かがほどけ始めている。

 阿修羅の涙は、岩場だけに留まらなかった。

 それは今、人の世界の最も小さな場所で、静かに波紋を広げていた。

 子どもの瞳に浮かんだ光は、まだ落ちることをためらっていた。

 瞬きをするたびに揺れ、消えそうになり、それでも消えずに留まっている。

 その小さな均衡の中に、空海は、昨夜の阿修羅の姿を見ていた。

 怒りが涙へ変わるまでの、長い、長い時間。

 子どもは、唇を噛んでいた。
 声を出せば、何かが壊れると知っているように。

 泣けば、戻れなくなる。
 そんな予感が、幼い胸の奥にある。

 空海は、何も言わなかった。
 言葉は、もう必要ではない。

 涙は、言葉の外で生まれるものだからだ。

 やがて、小さな呼吸が震えた。

 それは嗚咽ではない。
 ただ、
 息が少しだけ深くなった。

 その瞬間――
 一粒の涙が、頬を伝った。

 音はしない。
 光も放たない。
 ただ、静かに落ちる。

 それでも、世界のどこよりも確かな出来事だった。

 地面に触れた涙は、すぐに土へ吸い込まれ跡を残さない。

 だが、空海には分かった。

 今、確かに何かが変わった。

 子どもは、声を上げて泣かなかった。
 顔も歪めない。

 ただ、もう一粒、
 そして、もう一粒と静かに涙を落とし続けた。

 その姿は、悲惨ではなかった。
 むしろ、どこか澄んで見えた。

 重すぎたものが、初めて動き始めた証だった。

 空海の胸の奥で、昨夜の岩場の気配が、再び揺れた。

 阿修羅の涙。
 怒りの奥から生まれた、あの静かな一滴。

 それと同じものが、今ここにある。

 だが今回は、戦の神でも、怒りの象徴でもない。

 ただの人の子の中に。

 空海は、深く、静かに息を吐いた。

 救いとは、何か。
 悟りとは、何か。

 それらの問いが、これまでとは違う形で、胸の中に立ち上がる。

 大きな奇跡ではない。
 世界を覆す光でもない。

 たった一粒の涙が、流れることを許されること。

 それだけで、人は再び生き始めるのかもしれない。

 そのとき、背後で微かな物音がした。

 振り返ると、戸口に座っていた老人が、こちらを見ている。

 何も言わない。
 だが、その目は、子どもの頬を伝う涙を、確かに見ていた。

 さらに、水桶を持っていた女も、動きを止めている。

 誰も近づかない。
 誰も声をかけない。

 それでも、村の沈黙の質が、わずかに変わった。

 凍りついた沈黙ではない。
 耳を澄ませる沈黙。

 涙が落ちる音なき瞬間を、逃すまいとする静けさ。

 空海は理解した。

 涙は、一人の出来事では終わらない。

 それは、見た者の心にも、静かな揺らぎを残す。

 阿修羅の涙が、山を越え、ここまで届いたように。

 今落ちたこの涙も、きっとどこかへ続いていく。

 見えないまま、言葉にならないまま、それでも確かに。

 子どもは、最後の一粒を落とすと、ゆっくりと息を整えた。

 泣き止んだ、というより――涙と共に立ち直ったように見えた。

 その小さな変化が、朝の光の中で不思議な重みを持っていた。

 子どもの涙が止まったあとも、村の空気は、すぐには元へ戻らなかった。

 誰も言葉を発しない。
 だが、その沈黙は、先ほどまでの沈黙とは違っていた。

 重さに押し潰された沈黙ではない。
 何かを待っている沈黙だった。

 老人は、ゆっくりと背筋を伸ばした。
 それだけの動き。
 だが、そこには確かな変化があった。

 女は、水桶を地面に下ろし、両手をしばらく見つめたあと、再び静かに持ち上げた。

 子どもは、空海を見上げていた。
 泣いた顔のまま、しかし先ほどよりも、わずかに呼吸が深い。

 空海は、何も言わなかった。
 この場で言葉を重ねれば、今起きた変化を、小さな意味へ閉じ込めてしまう。

 沈黙のまま保たれるものがある。
 それを、昨夜から知り始めていた。

 村の上を、朝の光がゆっくりと満たしていく。
 屋根の歪みも、壁のひびも、何一つ消えてはいない。

 飢えも、戦も、終わったわけではない。

 それでも――どこかに、わずかな余白が生まれていた。

 涙が落ちたことで、世界が変わったのではない。

 だが、変わりうる場所が初めて現れた。

 空海は、その感覚を胸に刻んだ。

 救いとは、苦しみを消すことではない。

 怒りを鎮めることでもない。
 世界を正すことですらない。

 ただ――涙が流れる場所を、閉ざさないこと。

 それだけで、人は再び歩き出せる。

 空海は、静かに立ち上がった。
 子どもに手を伸ばすことはしない。
 抱き寄せもしない。

 この涙は、空海のものではない。

 子ども自身が辿り着いた場所だからだ。

 ただ、軽く頷いた。
 それだけで十分だった。

 子どもも、小さく頷き返した。
 言葉は交わされない。
 だが、何かは確かに通じていた。

 空海は、ゆっくりと村を後にした。
 振り返らない。

 振り返れば、この出来事を「完結したもの」と思い込んでしまいそうだった。

 だが、涙は終わりではない。
 始まりだ。

 山道へ戻ると、朝の風が、再び頬を撫でた。

 その風の中に、微かな気配が混じっている。

 怒り。
 嘆き。
 まだ涙へ至らない、重たい感情。

 それは、この村だけのものではない。

 もっと遠く――もっと深い場所から、確かに響いている。

 空海は目を閉じ、その震えを受け取った。

 昨夜、阿修羅の涙に触れたときと同じ質の震え。

 だが、より大きく、より暗い。

 個の怒りではない。
 世界の底に沈んだ、名もなき苦しみ。

 空海は、静かに目を開いた。

 歩みは止まらない。
 止めてはならない。

 涙が波紋となるなら、その波紋の先へ歩き続けねばならない。

 彼の前に広がる山道は、まだ細く、険しい。
 だが、その先にあるものを、すでに感じ始めていた。

 さらに深い怒り。
 さらに重い涙。
 そして――沈黙すら届かぬ闇。

 むしろ今、本当の深みへと入り始めたところだった。

 空海は、静かな決意とともに、次の歩みを踏み出した。

つづく…

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