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(1)怒りを宿す者
山は、泣いているようだった。夜明け前の薄闇の中、空海は一人、山中の道を歩いていた。風はなく、木々は静まり返っている。それでも、どこかで水が落ちる音がしていた。岩を伝い、苔に吸い込まれ、また滴る――その循環が、まるで嗚咽のように耳に残る。空海は立ち止まり、合掌した。祈りのためではない。
この場に満ちているものを、受け取るためだった。胸の奥に、重たい気配があった。
怒り。だが、人が抱く怒りとは、質が違う。それは、爆発を欲していない。叫びも、破壊も求めていない。ただ、抑えられ続けた力として、沈殿している。
――ここにいる。そう告げられた気がした。
空海は、歩みを再開した。足元の土は湿り、わずかに温かい。地が、まだ何かを抱え込んでいる。やがて、開けた岩場に出た。月明かりが、そこだけを淡く照らしている。
そして、その中央に――立つ影があった。人の形をしている。だが、人ではない。腕は六本。顔は憤怒に歪み、それでいて、その瞳は、どこか幼い。
阿修羅。
名を呼ぶ前に、空海は理解していた。これは仏敵ではない。討つべき存在でもない。これは、怒りそのものが、形を取った存在だ。阿修羅は、動かなかった。武器も構えていない。だが、周囲の空気は張り詰めている。怒りが、ここに在る。それだけで、世界は緊張する。空海は、恐れなかった。だが、軽視もしなかった。合掌したまま、一歩前へ出る。
「……お前は、怒りを抱いている」
阿修羅の肩が、わずかに震えた。声をかけられたことに対する反応ではない。理解されたことへの反応だった。
空海は続けた。「怒りは、悪ではない。 だが、行き場を失えば、世界を裂く」
阿修羅の六つの腕が、ゆっくりと動いた。武器を取るためではない。自らを抱え込むような仕草だった。 その姿を見て、空海は悟った。
――この存在は、
――怒りを振るう者ではない。
――怒りに耐えてきた者だ。
月明かりの下で、阿修羅の瞳が、かすかに潤んだ。涙ではない。だが、涙になる直前の光が、そこにあった。
空海は、静かに言った。「……泣いてよい」
その言葉は、慰めではない。許しでもない。怒りが、涙へ変わることを許す言葉だった。阿修羅は、初めて大きく息を吸った。胸が震え、岩場の空気が揺れる。怒りは、まだ消えていない。だが、その奥で、何かがほどけ始めていた。夜明けは、まだ遠い。だが、この場で、確かに一つの転換が始まっていた。
阿修羅は、しばらく黙っていた。六本の腕は胸の前で交差したまま、指先だけが微かに震えている。怒りが鎮まったわけではない。だが、噴き上がることもなかった。
空海は、問いを急がなかった。この沈黙は、拒絶ではない。言葉が形を得る前の沈黙だと、直感していた。
やがて、阿修羅の口がわずかに開いた。
「……見てきた」
声は低く、擦れた音を含んでいる。咆哮ではない。怒りを誇示する声でもない。
それは、長く押し殺されてきた感情が、初めて言葉を得た音だった。
「世界を…… 戦を…… 人が、人を……」
言葉は途切れ、続かなかった。阿修羅は、まるで喉に何かが詰まっているかのように、苦しげに息を吐いた。
空海は、ただ頷いた。
「……見続けてきたのだな」
阿修羅の肩が、再び震えた。六つの腕のうち、一つが、無意識のように岩肌を掴む。石が、きしりと音を立てた。
「止められぬ…… 叫べば、争いになる…… 黙れば、奪われる……」
その言葉に、空海の胸が静かに締めつけられた。これは、戦う者の怒りではない。止められなかった者の怒りだ。
阿修羅は続けた。
「正しさが……いつも、刃を持って現れる……」
正義。
秩序。
大義。
それらは常に、剣や命令とともに語られる。その構造を、阿修羅は見抜いていた。
空海は、低く応じた。
「正しさは、力と結びついたとき、最も多くの涙を生む」
阿修羅の瞳が、わずかに見開かれた。否定ではない。確認だった。
「……では、なぜ……許される……?」
問いは、空海に向けられていた。だが、それは仏に向けられた問いでもある。
なぜ、これほどの怒りが、世界に満ちているのに、何も裁かれないのか。なぜ、涙は数えられず、命令だけが正当化されるのか。
空海は、すぐには答えなかった。答えられなかったのではない。答えてはならない問いだと感じていた。
代わりに、静かに言った。
「……許されてはいない。ただ……引き受けられていないだけだ」
阿修羅の六つの腕が、ゆっくりとほどけた。岩を掴んでいた手が離れ、空中で、行き場を失ったように揺れる。
「引き受ける……?」
「怒りも、涙も、問いも……誰かが、抱えねばならぬ」
空海は、一歩前に出た。距離は、まだ保たれている。だが、心の隔たりは、確実に縮まっていた。
「お前は……一人で……怒りを抱えすぎた。」
その言葉に、阿修羅の顔が歪んだ。憤怒ではない。疲労だった。
「……抱えねば、誰が……」
その問いは、叫びではなかった。諦めでもない。
責任を引き受けすぎた者の、かすれた問いだった。
空海は、深く息を吸い、はっきりと答えた。
「……お前一人ではない」
阿修羅の瞳が、揺れた。怒りが消えたわけではない。だが、その奥に、初めて他者が差し込んだ。
月明かりが、岩場をさらに白く照らす。その光の中で、阿修羅の頬に微かな光の粒が生まれた。
それは、まだ涙ではない。だが、涙になる準備を始めた光だった。
阿修羅は、しばらくその場に立ち尽くしていた。六つの腕は、もはや胸を抱くことも、岩を掴むこともしていない。宙に浮いたまま、どう動かしてよいか分からない――そんな、行き場を失った姿だった。
「……もし……」
低い声が、再び夜気を震わせた。
「もし……この怒りを……手放したなら……」
言葉は、途切れ途切れだった。だが、その続きを、空海は察していた。
――自分は、空になってしまうのではないか。
――何も残らなくなるのではないか。
阿修羅の瞳は、怯えを帯びていた。それは敵意ではない。戦う者の目でもない。
守ってきたものを失うことへの恐れだった。
「怒りがなければ……私は……見続けられぬ……」
空海は、すぐに答えなかった。否定もしなかった。
怒りは、阿修羅にとって武器ではない。眼だった。世界の不正を見逃さぬための、涙が乾ききらぬための最後の感覚。
それを奪えば、この存在は、ただの空洞になる。
空海は、静かに首を振った。
「……手放せ、とは言わぬ」
阿修羅の六つの顔――正面だけでなく、横に刻まれた憤怒の相が、同時にわずかに動いた。驚きでも、反発でもない。
理解を待つ沈黙だった。
「怒りは……お前が生きてきた証だ。見続け、耐え続け、声にならぬものを抱えてきた証だ」
空海は、一歩、さらに近づいた。もはや、逃げる距離ではない。
「それを、無理に消せば……世界は、もっと冷たくなる」
阿修羅の喉から、かすかな音が漏れた。嗚咽に似ているが、まだ涙には至らない。
「……では……どうすれば……」
問いは、怒りからではなく、疲れから生まれていた。
空海は、ゆっくりと答えた。
「……怒りを、抱えたままでよい。だが……一人で抱えるな」
阿修羅の身体が、目に見えて揺れた。拒絶ではない。重さが、初めて分散される感覚だった。
「怒りは……振るうためにあるのではない。壊すためにあるのでもない」
空海の声は、低く、だが確かだった。
「怒りは……泣くことを、許すためにある」
その言葉が落ちた瞬間、阿修羅の瞳に溜まっていた光が、ついに形を失った。
涙が頬を伝い、顎から落ち、岩に吸い込まれていく。
怒りが消えたからではない。怒りが、初めて休む場所を得たからだった。
六つの腕が、ゆっくりと下がる。武器を捨てる動作ではない。力を抜く動作だった。
阿修羅は、声を上げて泣かなかった。嗚咽もしなかった。ただ、静かに、確かに、涙を流した。
山は、その涙を拒まなかった。岩は割れず、地は崩れず、夜は、静かなままだった。
空海は、合掌した。祈りではない。見届けるための合掌だった。
涙が落ちきったあとも、阿修羅は動かなかった。怒りが消え去ったわけではない。だが、その怒りは、もはや噴き上がる熱ではなく、静かに脈打つ重さへと変わっていた。
六つの腕は下がり、指先は、力を失ったというより、役目を終えたかのように静まっている。
阿修羅は、初めて自分の手を見つめた。血も、武器も、怒号もない。そこにあるのは、長く世界を掴み続けてきた掌だけだった。
「……軽い……」
その言葉は、驚きでも解放でもはなかった。
重さを分かち合ったあとの、静かな実感だった。
空海は、頷いた。
「怒りは……捨てられたのではない。お前の中で、正しい場所へ戻ったのだ」
阿修羅は、空海を見た。憤怒の相は、まだ顔に残っている。だが、その奥で、別の表情が芽生えていた。
疲れきった者の、安堵。
「……私は……まだ……怒っている……」
その告白は、罪悪感を含んでいなかった。
「それでよい」
空海は、即座に答えた。
「怒りは……消すものではない。だが……独りで抱え込めば、必ず歪む」
阿修羅の胸が、静かに上下した。呼吸が、整い始めている。
「……では…… これから……どうすれば……」
その問いは、もはや世界への抗議ではなかった。生き方を探す問いだった。
空海は、夜明けの気配が忍び寄る空を見上げ、ゆっくりと言った。
「怒りを持ったまま、泣くことを許せ。泣いたまま、世界を見ることをやめるな」
阿修羅は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頷いた。
六つの顔すべてが、同時に頷いたわけではない。一つ、また一つと、時間差で、頷きが連なった。
それは、この存在が一度に変わるのではなく、何層にも折り重なった怒りと痛みを、順に受け止め直している証だった。
夜明けの光が、岩場の縁を染め始める。淡い橙色が、阿修羅の輪郭を柔らかく包んだ。
その光の中で、阿修羅は、少しだけ人に近づいて見えた。
戦うための神でも、破壊の象徴でもない。
怒りを抱えながら、涙を流すことを許された存在として。
空海は、合掌を解いた。
もう、祈る必要はなかった。この場でなされたことは、祈りを超えたところで、確かに成立していた。
阿修羅は、静かに後ずさり、やがて光の中へ溶けていく。
消えたのではない。戻ったのだ。
怒りとともに、世界のどこかへ。
空海は、その場に一人残った。胸の奥に、重たいものが残っている。だが、それは悲しみでも恐れでもない。
他者の怒りを、引き受けた者の重さだった。
彼は、静かに呟いた。
「……怒りは、裁くためにあるのではない。生き延びるために、涙へと至る道なのだ」
夜は終わり、朝が始まる。だが、怒りと涙の物語は、まだ終わらない。
この出会いは、空海の内側に、確かな痕跡を残していた。
それはやがて、次の問いへ、次の沈黙へ、次の歩みへとつながっていく。
阿修羅の涙は、世界が、怒りを抱えたまま生き直すための、最初の一滴だった。
つづく…











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