(5)火を抱く守り手
尾根を下りはじめた空海は、遠くに黒煙が立ちのぼるのを見た。風向きは穏やかであるにもかかわらず、煙はまっすぐ空へ伸びている。 ただの野焼きではない。
嫌な予感が胸をよぎった。
足を速める。
山道を抜け、低地へ出ると、荒れた集落が視界に入った。
まだ新しい焼け跡。
倒れた柵。
崩れた壁。
人々が右往左往し、泣き声が混じる。
争いが起きた直後だった。
空海は状況を一瞥した。
襲撃は去ったらしい。
だが恐怖と怒りが場に残っている。
男たちが武器を手に、声を荒げている。
「追うべきだ」
「報いを与えねばまた来る」
怒りは即座に次の暴力を生む。
空海の胸が強く鳴った。
これは今朝見た沈殿した怒りではない。
今まさに燃え上がろうとする火だ。
そのとき、風が強く吹いた。
煙が渦を巻く。
空海の背後で、空気が震えた。
姿は見えない。
だが気配はある。
阿修羅の火だ。
怒りが、場の空気と共鳴する。
男たちの叫びが一層荒くなる。
空海は一歩前に出た。
合掌しない。
祈りもまだ唱えない。
まず、声を発する。
「追えば、また追われます」
男たちが振り向く。
怒りに満ちた目が空海を射抜く。
「何もせぬのか」
「黙って奪われろと言うのか」
空海は揺れない。
「守るために怒ることは否定しません。だが今の怒りは、守るためですか。それとも傷を晴らすためですか」
その言葉が空気を裂いた。
男の一人が歯を食いしばる。
「奴らは奪った」
「家も、食料も」
「では何を守りたいのですか」
空海は続ける。
沈黙が落ちる。
怒りは勢いを失いかける。
「子どもだ」
誰かが言う。
「家族だ」
その瞬間、空海の背後の気配が変わった。
燃え上がろうとしていた火が、方向を失わずに留まる。
阿修羅の火が、暴走しない。
空海は静かに言う。
「ならば守りに向けてください。
追撃ではなく、備えへ。復讐ではなく、結束へ」
男たちの呼吸が荒い。
だが次第に、叫びは止まる。
「怒りは力です。」
空海は続ける。
「だが力は向きを持たねばなりません。
守りたいものを見失えば、力は自らを焼きます。」
風が再び吹く。
煙が静まる。
空海は初めて真言を唱えた。
低く、深く、一定の響き。
声は争いを止めるためではない。
場の火を整えるためだ。
男たちは武器を握ったまま立ち尽くす。
だが先ほどの荒々しさはない。
「柵を直せ」誰かが言う。
「見張りを立てよう」
怒りが、方向を得る。
空海は感じた。
背後の見えぬ気配が、静かに頷いた。
阿修羅の火は消えていない。
だが今、それは暴力へ向かわなかった。
守りへ転じた。
集落の子どもが、震えながら母の袖を握っている。
空海はその前にしゃがみ、静かに目を合わせる。
「怖かったですね」
子どもは小さく頷く。
空海は言う。
「怖さは消えません。
怒りも消えません。
けれど守ることはできます」
その言葉は説教ではない。
実践だった。
火は抱くものだ。
捨てるものではない。
だが抱くには、意志が要る。
集落では、すでに修復が始まっている。
壊れた柵を立て直し、散らばった荷を集める。
怒りは残る。
だが次の破壊へ向かわない。
空海は空を見上げた。
見えないが、確かに感じる。
阿修羅の火が、今は暴れず、静かに灯っている。
怒りは守りに変わり得る。
願いを忘れぬ限り。
空海は立ち上がる。
まだ多くの怒りが世界にある。
だが今日、ひとつの火は暴走しなかった。
それだけで、十分だった。
彼は、火を抱いた守り手として再び歩き出す。
つづく…


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