【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(24)第4章 阿修羅の涙 火を抱く守り手——⑤

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(24)第4章 阿修羅の涙 火を抱く守り手——⑤ こころの座標ー外伝1
【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(24)第4章 阿修羅の涙 火を抱く守り手——⑤

(5)火を抱く守り手

 尾根を下りはじめた空海は、遠くに黒煙が立ちのぼるのを見た。風向きは穏やかであるにもかかわらず、煙はまっすぐ空へ伸びている。

 ただの野焼きではない。

 嫌な予感が胸をよぎった。

 足を速める。

 山道を抜け、低地へ出ると、荒れた集落が視界に入った。

 まだ新しい焼け跡。

 倒れた柵。

 崩れた壁。

 人々が右往左往し、泣き声が混じる。

 争いが起きた直後だった。

 空海は状況を一瞥した。

 襲撃は去ったらしい。

 だが恐怖と怒りが場に残っている。

 男たちが武器を手に、声を荒げている。

「追うべきだ」

「報いを与えねばまた来る」

 怒りは即座に次の暴力を生む。

 空海の胸が強く鳴った。

 これは今朝見た沈殿した怒りではない。

 今まさに燃え上がろうとする火だ。

 そのとき、風が強く吹いた。

 煙が渦を巻く。

 空海の背後で、空気が震えた。

 姿は見えない。

 だが気配はある。

 阿修羅の火だ。

 怒りが、場の空気と共鳴する。

 男たちの叫びが一層荒くなる。

 空海は一歩前に出た。

 合掌しない。

 祈りもまだ唱えない。

 まず、声を発する。

「追えば、また追われます」

 男たちが振り向く。

 怒りに満ちた目が空海を射抜く。

「何もせぬのか」

「黙って奪われろと言うのか」

 空海は揺れない。

「守るために怒ることは否定しません。だが今の怒りは、守るためですか。それとも傷を晴らすためですか」

 その言葉が空気を裂いた。

 男の一人が歯を食いしばる。

「奴らは奪った」

「家も、食料も」

「では何を守りたいのですか」

 空海は続ける。

 沈黙が落ちる。

 怒りは勢いを失いかける。

「子どもだ」

 誰かが言う。

「家族だ」

 その瞬間、空海の背後の気配が変わった。

 燃え上がろうとしていた火が、方向を失わずに留まる。

 阿修羅の火が、暴走しない。

 空海は静かに言う。

「ならば守りに向けてください。
 追撃ではなく、備えへ。復讐ではなく、結束へ」

 男たちの呼吸が荒い。

 だが次第に、叫びは止まる。

「怒りは力です。」

 空海は続ける。

「だが力は向きを持たねばなりません。

 守りたいものを見失えば、力は自らを焼きます。」

 風が再び吹く。

 煙が静まる。

 空海は初めて真言を唱えた。

 低く、深く、一定の響き。

 声は争いを止めるためではない。

 場の火を整えるためだ。

 男たちは武器を握ったまま立ち尽くす。

 だが先ほどの荒々しさはない。

「柵を直せ」誰かが言う。

「見張りを立てよう」

 怒りが、方向を得る。

 空海は感じた。

 背後の見えぬ気配が、静かに頷いた。

 阿修羅の火は消えていない。

 だが今、それは暴力へ向かわなかった。

 守りへ転じた。

 集落の子どもが、震えながら母の袖を握っている。

 空海はその前にしゃがみ、静かに目を合わせる。

「怖かったですね」

 子どもは小さく頷く。

 空海は言う。

「怖さは消えません。

 怒りも消えません。

 けれど守ることはできます」

 その言葉は説教ではない。

 実践だった。

 火は抱くものだ。

 捨てるものではない。

 だが抱くには、意志が要る。

 集落では、すでに修復が始まっている。

 壊れた柵を立て直し、散らばった荷を集める。

 怒りは残る。

 だが次の破壊へ向かわない。

 空海は空を見上げた。

 見えないが、確かに感じる。

 阿修羅の火が、今は暴れず、静かに灯っている。

 怒りは守りに変わり得る。

 願いを忘れぬ限り。

 空海は立ち上がる。

 まだ多くの怒りが世界にある。

 だが今日、ひとつの火は暴走しなかった。

 それだけで、十分だった。

 彼は、火を抱いた守り手として再び歩き出す。

つづく…

 

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