【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(23)第4章 阿修羅の涙 怒りの奥にある願い——④

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(23)第4章 阿修羅の涙 怒りの奥にある願い——④

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(4)怒りの奥にある願い

 尾根の岩場に立つ空海の背後で、空気が不自然に沈んだ。風は吹いているのに、音だけが遅れて届く。光は差しているのに、景色だけが薄く曇る。まるで世界が、息を止めたようだった。

 空海は合掌しないまま、ゆっくりと振り返った。

 そこに阿修羅が立っていた。
 六つの腕。
 焦げた鉄のような輪郭。
 燃えるような眼。
 だが以前のように、怒りが噴き上がっていない。
 怒りはある。
 しかしそれは、噴火ではなく、深い地熱のように沈んでいる。

「戻ってきたのか」空海の声は静かだった。

「戻ったのではない」阿修羅の声は低く、岩の内部から響くようだった。

「お前が、まだここに立っているからだ」
 空海は頷いた。自分の胸の奥に残る震えが、阿修羅を呼んだのかもしれない。だが呼んだというより、ただ繋がっていたのだ。怒りと涙。その奥にある、名のない何かと。

「私は理解したい。あなたの怒りが、ただの破壊ではないことを…」空海は言った。

 阿修羅の六つの腕がわずかに動いた。武器を持つ動きではない。言葉にならないものを、掴もうとする動きだった。

「破壊は結果だ。我は破壊を望んでいるのではない」阿修羅は言った。

「だが破壊は起きる。怒りは容易く向きを失う。守るための力が、いつしか奪うための力へ変わる。それを私は恐れる」空海は譲らない。

 阿修羅はしばらく黙っていた。その沈黙は怒りを溜めるためではない。傷の深さを確かめるような沈黙だった。

「お前は恐れる」阿修羅が言った。
「だが恐れながら、ここに立っている。それは、逃げぬということだ」

 空海は息を吸った。逃げないことが正しいのかどうか。それすら分からない。ただ、見捨てないという在り方だけは、捨ててはならない気がしていた。

「阿修羅」空海は名を呼んだ。
「あなたは何を守りたかったのですか」

 その問いの瞬間、空気がひとつ震えた。

 阿修羅の眼が鋭く光った。怒りではない。痛みが、露出した光だった。

「守りたかった未来」阿修羅は短く答えた。
「守りたかった命。守りたかった約束」

 空海はその言葉を受け、さらに踏み込んだ。

「それは、いつ、どこで、失われたのですか」

 阿修羅の輪郭が揺らぎ、岩場の景色が歪んだ。

 空海の視界に、別の世界が重なる。

 乾いた平原。
 燃える城壁。
 倒れた兵。
 土に染みる血。
 煙と悲鳴。

 そして、祈りにならなかった声。

「ここだ」阿修羅の声が戦場を貫いた。
「我は何度もここに立った。
 同じように燃える世界の中で、同じように崩れる命の中で守ろうとした。
 だが守れなかった」

 空海の喉が乾く。

 戦場は外の出来事ではない。
 阿修羅の内面そのものが、戦場として再生されている。
 視界の端で、幼い子どもが倒れている。
 兵が走り寄ろうとする。しかし矢が飛ぶ。倒れる。
 誰も届かない。誰も間に合わない。

 空海の胸に、村の子の涙が重なった。
 泣くこともできずに固まっていた沈黙。
 泣く力を奪われた世界。
 あの世界が、ここでは火として燃えている。

「怒りは、間に合わなかったことの記憶だ」阿修羅は言った。
「遅れた一歩。
 届かなかった腕。
 守れなかった背中。
 そのすべてが、我の中で燃え続けた」

 戦場の炎が一瞬だけ強くなる。だがその炎は外を焼いていない。
 阿修羅の内部を焼いている。

「怒りは火だ」阿修羅は続けた。
「火は焼く。だが火は、暗闇で道を示す。
 火を捨てれば、二度と守れぬものがある」

 空海は戦場の中で、静かに問い返す。

「火を持ったまま、焼かずにいられるのですか」

 阿修羅の眼が曇った。その曇りは、敗北ではない疲労に近かった。

「難しい」阿修羅は言った。
「火を持てば、己も焼ける。
 火を抱えれば、いつか外へ漏れる。だから人は我を恐れる」

 空海は息を吐いた。
 恐れるのは正しい。しかし恐れだけでは、誰も救われない。
 恐れは距離を作る。距離は沈黙を凍らせる。凍った沈黙の底で、怒りはさらに沈む。

 戦場の景色が揺らぎ、今度は曼荼羅が重なった。
 中心に大日如来。
 絶対の静けさ。
 均等な光。
 だが外縁には、忿怒の相が配置されている。
 怒りの顔。
 火の眼。
 剣。
 縄。
 踏みしめる姿。そこに阿修羅の輪郭が、影のように重なる。

 空海は気づく。

 怒りは排除されていない。
 曼荼羅は怒りを外へ捨てて完成するのではない。
 怒りを、別の働きへ転ずることで成り立っている。

「阿修羅……」空海は戦場と曼荼羅の二重の光景の中で言う。

「あなたは、慈悲を持たぬ存在ではない。
 むしろ慈悲を持ちすぎたのではないですか」

 阿修羅の六つの腕が止まった。炎が一瞬だけ弱まる。
 そして、その沈黙の中で、阿修羅は吐くように言った。

「慈悲を持つほど、失う。
 守りたいほど、守れぬ。
 救いたいほど、間に合わぬ」

 その言葉は、怒号ではなく告白だった。

 阿修羅の怒りの核にあるものが、初めて言葉になった瞬間だった。

 空海は言う。

「怒りは、慈悲の否定ではない。
 怒りは、慈悲が傷ついた姿です」

 阿修羅は一歩近づいた。戦場の景色がさらに濃くなる。
 炎が唸る。倒れた者の眼差しが、空海を見上げる。

「ならば問う」阿修羅が言った。
「お前は、何をもってこの火を鎮める。
 祈りか。
 言葉か。
 沈黙か」

 空海は即答しなかった。

 鎮めるという言い方自体が、少し違うと感じたからだ。
 怒りは消えない。
 ただ向きが変わる。そして、位置が変わる。

「鎮めません」空海は静かに言った。
「消しません。
 閉じ込めません。私は、問い続けます」

「問い続けるだと」阿修羅の眼が鋭くなる。

「はい」空海は言う。
「私は、何を守りたいのか。
 私は、何を失いたくなかったのか。
 私は、誰のために怒るのか。
 私は、怒りの名で、何を正当化していないか」

 阿修羅は沈黙した。その沈黙は、初めて「考える沈黙」だった。
 怒りの中に、思考が戻り始める。戦場の炎が、少しだけ弱まる。
 代わりに、倒れた者たちの輪郭がはっきりしてくる。
 顔が見える。手が見える。祈りにならなかった口元が見える。

 空海は続ける。

「願いを見失った怒りは、己を正しいと叫びます。そして焼き尽くします。
 しかし願いを覚えている怒りは、守りの力へ変わる」

 阿修羅の六つの腕が、ゆっくりと下がった。
 武器を捨てる動作ではない。
 肩の力が抜ける動作だった。

「守りの力……」阿修羅は呟く。
「我の火が、守りになるというのか」

「なります」空海は言った。
「火は刃にもなる。しかし火は灯にもなる。
 灯は、誰かが泣くことを許す。
 誰かが崩れる前に、息を整える余白を作る」

 村の子の涙が、再び胸をかすめた。あの一粒は、世界を変えない。
 だが世界が変わりうる余白を作る。余白がなければ、怒りは硬直し、沈殿し、やがて爆ぜる。

 阿修羅の眼から、炎ではない光が滲んだ。涙のようで、涙ではない。火が火のまま、別の相へ移ろうとしている。

「空海」阿修羅は低く言った。
「我はまだ怒る。この火は消えぬ」

「ええ」空海は頷いた。
「消えません。だからこそ願いを忘れないでください」

 阿修羅の輪郭が、ゆっくりと淡くなる。

 戦場の景色が遠のく。曼荼羅の中心の光が、静かに残る。外縁の忿怒の相もまた、光の一部として定位置に戻る。

「我は忘れぬ」阿修羅は最後に言った。
「守りたかった未来を。守れなかった命を。間に合わなかった一歩を」

 その言葉は誓いだった。怒りの誓いではない。願いの誓いだった。

 阿修羅の姿は、風の中へ溶けた。岩場には静かな光が戻る。鳥の声が、遅れて響く。世界が再び息をする。

 空海は深く息を吐いた。胸の奥に、重さが残る。だがそれは、絶望ではない。引き受けた重さであり、忘れない重さだった。

 怒りは敵ではない。怒りは願いの記憶。慈悲が傷ついた痕。
 願いを見失わぬ限り、火は灯となる。

 空海は歩き出した。

 怒りの奥に眠る、さらに深い真実へ向かって。

つづく…

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