【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(22)第4章 阿修羅の涙 世界の底にある怒り——③

【長編連載小説】 『こころの座標 外伝:失われた時間の旅』(22)第4章 阿修羅の涙 世界の底にある怒り——③

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(3)世界の底にある怒り

 山道は、次第に人の気配を失っていった。

 村を離れてから、どれほど歩いただろうか。
 足元の土は乾き、草はまばらになり、やがて道そのものが、曖昧な線へと変わっていく。

 ここから先は、人が長く留まる場所ではない。

 空海は歩みを止めなかった。
 呼ばれているわけではない。
 導きがあるわけでもない。

 それでも、進まねばならない場所があると身体の奥が知っていた。

 風が止まっている。
 鳥の声もない。
 音のない静けさが、空間を満たしている。

 だが、その静けさは、安らぎではなかった。

 むしろ――声にならない何かが、押し込められている静けさ。

 空海は、胸の奥に重みを感じた。
 村で触れた悲しみよりも深い。
 阿修羅の怒りよりも広い。

 名を与えるなら――世界そのものの痛み。

 やがて、視界が開けた。
 山の尾根に出たのだ。

 その先には、荒れた大地が広がっていた。

 焼けたような色の地面。
 崩れた岩。
 枯れた川筋。

 生命の気配が、ほとんどない。

 空海は、その光景を見つめた。
 自然の荒廃ではない。
 長い時間、何かが積み重なり続けた痕跡だった。

 怒り。
 嘆き。
 絶望。

 それらが、誰にも引き受けられぬまま沈殿していった場所。

 空海は、一歩踏み出した。
 足元の砂が、かすかに崩れる。

 その瞬間――胸の奥に鈍い衝撃が走った。

 痛みではない。
 だが、確かに身体を貫く感覚。

 空海は息を詰めた。

 これは、自分の感情ではない。

 この大地に沈んだ感情だ。

 誰か一人の怒りではない。
 村一つの悲しみでもない。

 もっと長く、
 もっと多く、
 もっと深い。

 積み重なりすぎて、もはや言葉を持たない怒り。

 空海は、静かに膝をついた。
 祈るためではない。

 触れるためだった。

 手を地面に置く。
 乾いた土。
 だが、その奥に、微かな熱がある。

 消えきらない感情の熱。

 そのとき――遠くで、何かが動いた。

 影。だが、形は定まらない。

 人のようで、獣のようで、あるいはただの揺らぎのようでもある。

 空海は立ち上がり、静かにその方向を見つめた。

 恐れはなかった。
 だが、これまでとは違う深さを感じていた。

 阿修羅は、一つの怒りの姿だった。

 だが、ここにあるものは違う。

 これは――無数の怒りが重なり、一つの層となったもの。

 言葉も、涙も、もう届かない領域。

 それでも、向き合わねばならない場所。

 空海は、ゆっくりと息を吸った。
 胸の奥で、何かが静かに震えている。

 恐れではない。
 逃避でもない。

 覚悟に近い沈黙だった。

 彼は、一歩、
 荒れた大地へ踏み出した。

 その瞬間、世界の底に沈んでいた怒りが、
 わずかに――目を覚ました。

 空海の足が荒れた大地へ触れた瞬間、胸の奥に沈んでいた震えが形を持ちはじめた。
 それは外から押し寄せる衝撃ではなく、内側から静かに満ち上がる重みだった。
 呼吸は乱れていない。
 それでも、息を吸うたびに見えない砂が肺へ流れ込むような感覚があった。
 これは苦しみではない。
 だが確かに、無数の感情が身体の奥へ触れてきている。

 空海は歩みを止めなかった。
 止まれば、この大地に沈んだものを拒むことになると分かっていたからだ。
 乾いた地面はひび割れ、靴の下でかすかな音を立てる。
 その一歩一歩に応じるように、周囲の空気がゆっくりと濃くなっていった。
 風は吹かない。
 だが、見えない流れだけが確かに動いている。
 それは声ではない。
 言葉でもない。
 ただ、長い年月のあいだ積み重なり続け、行き場を失った感情の圧だった。

 怒りというには広すぎ、悲しみというには深すぎる。
 誰か一人のものではなく、名も持たぬ無数の生の残響が、層となって沈んでいる。
 空海はその中心へ近づいているのだと理解した。
 阿修羅の怒りが一つの炎だとするなら、ここにあるものは燃え上がることさえできず、地下に閉じ込められた熱そのものだった。

 そのとき、視界の端で揺らぎが生まれた。
 先ほど遠くに見えた影が、ゆっくりと輪郭を帯びはじめる。
 形は定まらない。人の背のようでもあり、崩れた塔のようでもあり、ただの濃い闇の塊のようでもある。
 しかし確かなのは、それが外側から現れた存在ではないということだった。
 この大地に沈み、この場所そのものと結びついた気配だった。

 空海は立ち止まり、静かにその揺らぎを見つめた。
 恐怖は起こらない。
 だが、心の奥に触れてくるものは、これまで出会ったどの対峙よりも重かった。
 涙へ至る怒りではない。
 涙になることすら許されなかった感情の沈殿。
 それが今、ゆっくりと表面へ浮かび上がろうとしている。

 胸の内側で、昨夜触れた阿修羅の気配が微かに応じた。
 あの涙は終わっていない。ここへ続いている。
 個の怒りが解かれたあとに残る、さらに深い層へ。
 空海は目を閉じなかった。
 見届けるために、ただ立っていた。
 すると次の瞬間、言葉にならない感情が一気に流れ込んできた。

 叫び。
 断たれた願い。
 届かなかった祈り。
 守れなかった命。
 
 数えきれない断片が、意味を持たぬまま胸の奥へ触れては消えていく。
 痛みではない。だが、耐えるにはあまりに多い。
 空海の膝がわずかに揺れた。
 それでも倒れない。
 ここで崩れれば、この感情は再び沈むだけだと分かっていた。

 影が、さらに近づいた。
 いや、距離が縮まったのではない。
 空海自身が、より深くその層へ入ったのだ。
 周囲の空気が静かに歪み、光さえも重さを帯びているように感じられる。
 世界の底とは、このような場所なのかと、初めて実感が生まれた。
 救いも、祈りも、まだ届かない領域。
 ただ存在するだけの苦しみが、終わることなく留まり続けている場所。

 それでも空海は、逃げなかった。
 胸の奥で小さな呼吸を整え、ただ一つの思いだけを保った。
 拒まないという決意。
 それは何かを成し遂げる力ではない。
 ただ、この重さを見捨てないための、かすかな灯だった。

 影が、ついに空海の前で揺らぎを止めた。
 形は最後まで定まらない。
 だが、その存在は明らかに問いを含んでいた。
 声なき問い。
 なぜ見に来たのか。
 なぜ触れようとするのか。
 答えを求めるのではなく、ただ確かめるための沈黙。

 空海は、ゆっくりと息を吸った。
 そして何も語らなかった。
 言葉はここでは意味を持たない。
 ただ、立ち続けることだけが応答だった。
 その沈黙に触れた瞬間、世界の底に沈んでいた怒りが、再びわずかに揺れはじめた。
 今度は目覚めではない。
 もっと深い場所で起こる、変化の前触れのような震えだった。

 影は、なおも形を定めなかった。
 人の輪郭に似ては崩れ、闇の塊のように沈み、再び揺らぎへ戻る。
 それは存在というより、長く留まり続けた感情そのものだった。

 空海は動かなかった。
 逃げもせず、近づきもせず、ただその前に立ち続けた。
 沈黙だけが、両者のあいだを満たしている。

 やがて、胸の奥に触れていた無数の断片が、ゆるやかに一つの流れを持ちはじめた。
 叫びにならなかった声。
 救われなかった命。
 届かなかった祈り。
 それらが交わり、形なき問いとなって浮かび上がる。

 ――なぜ、見捨てられたのか。
 ――なぜ、終わらなかったのか。
 ――なぜ、誰も引き受けなかったのか。

 言葉ではない。
 だが確かに、問いだった。
 世界の底に沈み続けてきた問い。

 空海の呼吸が、わずかに深くなる。
 答えは持っていない。
 持てるはずもない。
 それでも、この問いの前に立つことだけは、避けてはならないと感じていた。

 胸の奥で、昨夜の光景がよみがえる。
 怒りを抱え続けた阿修羅。
 そして、涙へ至った静かな瞬間。

 だが、ここにあるものは違う。
 涙へ至る道すら閉ざされた怒り。
 長すぎる時間のなかで、凍りついた感情。

 空海の膝が、かすかに震えた。
 重さが増している。
 このまま立ち続ければ、やがて身体は耐えきれなくなるだろう。

 それでも、退かなかった。
 ここで退けば、この怒りは再び沈み、誰にも触れられぬまま続いてしまう。
 その未来だけは、選んではならないと思った。

 影が、わずかに近づく。
 距離が縮まったのではない。
 互いの沈黙が、より深く重なったのだ。

 その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
 初めての痛みだった。
 感情の重さではない。
 引き受けきれないものに触れた痛み。

 空海の呼吸が乱れる。
 一歩、後ろへ退きそうになる。
 だが、その動きを、かろうじて踏みとどまった。

 ここで崩れれば、ただの同情で終わる。
 ただの悲嘆で終わる。
 それでは、この場所へ来た意味がない。

 空海は、ゆっくりと目を閉じた。
 逃れるためではない。
 内側の最も静かな場所へ触れるためだった。

 言葉も、教えも、祈りも届かない領域。
 それでもなお残る、かすかな灯。
 それだけを、確かめるように。

 長い沈黙ののち、空海は再び目を開いた。

 影は、変わらずそこにある。
 怒りも、絶望も、消えてはいない。
 だが、わずかに――ほんのわずかに、揺らぎの質が変わっていた。

 拒絶ではない。
 攻撃でもない。
 ただ、見られていることを受け入れはじめた沈黙。

 空海は理解した。
 ここで必要なのは、救いの言葉ではない。
 終わりを約束する光でもない。

 ただ一つ。
 見捨てないという在り方だけだと。

 彼は何も語らず、ただそこに立ち続けた。
 時間の感覚は消え、風も音も遠ざかる。

 やがて――影の奥深くで、極めて微かな震えが生まれた。

 それは崩壊ではない。
 解放でもない。
 変化の、最初の兆しだった。

 その震えは、あまりにも微かだった。
 風が揺らしたのか、光が歪んだのか、見分けはつかない。
 だが確かに、影の奥深くで何かが動いた。

 崩れたのではない。
 ほどけたのでもない。
 ただ、長いあいだ閉ざされていた層に、
 わずかな隙間が生まれた。

 空海は息を詰めた。
 何もしていない。
 言葉もかけていない。
 祈りさえ捧げていない。

 それでも、変化は起きた。

 その事実が、胸の奥に静かに広がった。
 救いとは、力ではない。
 導きでもない。
 ただ、見捨てられなかった場所に生まれる余白なのかもしれない。

 影は依然として重く、暗い。
 怒りも絶望も消えてはいない。
 世界の底に沈んだまま、終わりなく留まり続けている。

 だが――完全な閉ざしでは、もうなかった。

 その変化は、光とは呼べない。
 希望とも違う。
 だが確かに、終わりではない状態が生まれていた。

 空海の膝から、力がゆっくりと抜けた。
 崩れ落ちるのではない。

 張りつめていたものが、静かに解かれていく感覚だった。

 ここまで来て、ようやく知る。
 この怒りを、引き受けることはできない。
 すべてを抱えることもできない。

 それでも――離れずに在ることは、できる。

 それだけが、自分に許された在り方なのだと理解した。

 影は、もはや迫ってこなかった。
 拒みもしない。
 ただ、そこに在り続ける。

 世界の底に沈む怒りとして。
 終わらぬ問いとして。

 空海は、ゆっくりと立ち上がった。
 足元の大地は変わらず荒れている。
 空も、光も、何一つ変わらない。

 それでも、彼の内側だけが、静かに変わっていた。

 救えないものがある。
 届かない場所がある。
 終わらない苦しみがある。

 その現実を、初めて真正面から受け取った。

 そして同時に、それでもなお、見捨てないという道だけは残されていると知った。

 空海は、最後にもう一度、影を見つめた。
 言葉は交わされない。
 意味も与えられない。

 だが、その沈黙は、もはや絶望ではなかった。

 長い時間の底で、かすかに動き始めたもの。
 それは名を持たない。

 それでも確かに、次へ続く震えだった。

 空海は、静かに背を向けた。
 逃れるためではない。
 ここに留まり続けることが、この怒りを再び閉ざしてしまうと感じたからだ。

 一歩、荒れた大地を離れる。
 もう一歩、尾根の方へ戻る。

 歩みは重い。
 だが、止まらない。

 背後の気配は、消えない。
 これからも世界の底に在り続けるだろう。

 だが同時に、あのわずかな隙間も消えずに残り続ける。

 それだけで、十分だった。

 空海は空を見上げた。
 雲は流れ、光は静かに満ちている。
 何も知らぬように、世界は続いている。

 だが、その同じ世界の底で、確かに何かが動き始めている。

 怒りの物語は、まだ終わらない。
 むしろ今、より深い段階へ入ろうとしていた。

 空海は、再び歩き出した。
 次に向かうのは、怒りそのものではない。

 その奥にあるもの。
 涙のさらに奥に沈む、
 もう一つの真実だった。

つづく…

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