(5)信仰と理性の亀裂
戦場を抜けたあとも、デカルトの内側では、何かが静かに軋み続けていた。
それは痛みではない。
だが、無視すれば確実に広がっていく種類の違和感だった。
幻影の師との対峙を経て、理性は沈黙し、再び歩き出した。
そのはずだった。
だが、歩き出した先で、彼は思いがけない壁に突き当たっていた。
――信仰。
その言葉が、これほど重く感じられたことはなかった。
理性は、問いを抱えたまま世界に留まる態度を学んだ。
理解できないものを、無理に切り捨てない姿勢も身につけた。
だが、信仰は違う。
信仰は、問いを抱えることを許すと同時に、
問いを越えて信じよと命じてくる。
デカルトは、足を止めた。
自分が今、どちらの声に耳を傾けているのか、分からなくなっていた。
戦場の外れに、小さな仮設の祈り場があった。
木の板を組み合わせただけの粗末な空間。
十字架が一本、斜めに立てかけられている。
その前で、数人の兵士が膝をついていた。
生き残った者たちだ。
彼らは言葉少なに祈っている。
救いを求めているのか。
赦しを乞うているのか。
それとも、ただ沈黙に耐えるためなのか。
デカルトには分からなかった。
だが、彼らが祈っているという事実だけは、強く胸に刺さった。
――理性は、ここで何ができる。
問いが、自然に浮かぶ。
だが、答えは出ない。
理性は説明を与えることができる。
信仰が生まれる歴史的背景も、心理的必要性も、社会的機能も。
だが、それらの説明は、いま膝をつく兵士の背中には届かない。
届かないどころか、
それらはすべて「余計なもの」に見えた。
デカルトは、初めて明確に感じた。
理性と信仰は、同じ場所に立てない瞬間がある。
それは敵対ではない。
否定でもない。
ただ、向いている方向が違う。
理性は、立ち止まり、問いを保ち、距離を測ろうとする。
信仰は、立ち止まることを拒み、身を投げ出す。
その差が、いま彼の足元で、細い亀裂となって開き始めていた。
デカルトは、祈る兵士たちに近づかなかった。
声をかけることもできなかった。
なぜなら、
彼はその瞬間、自分が祈れない側の人間であることを、はっきりと自覚してしまったからだ。
祈りたい、と思わないわけではない。
だが、信じ切ることができない。
信じ切れない自分が祈ることは、
彼にとって、あまりにも不誠実に思えた。
その誠実さこそが、
信仰との最初の断絶だった。
――信じない理性は、
――信じる者の隣に立てるのか。
問いは、再び姿を変えて、彼の前に現れた。
亀裂は、まだ小さい。
だが、確かに存在している。
この先、無視することもできる。
覆い隠すこともできる。
だが、いずれ踏み外せば、深く落ちる。
デカルトは、祈り場を背にして歩き出した。
逃げるためではない。
この亀裂を、正面から引き受けるために。
信仰と理性――
どちらかを選ぶためではなく、
引き裂かれたまま歩く覚悟を定めるために。
祈り場から離れてしばらく歩いたあとも、デカルトの胸には、あの沈黙した背中の列が焼きついていた。
膝を折り、額を垂れ、言葉を持たぬまま天に向かう姿。
そこには、理性が介入できる余地がなかった。
だが同時に、否定する理由も見つからなかった。
――あれは、弱さなのか。
――それとも、強さなのか。
問いは、簡単に二分できない形で彼の中に留まり続けた。
戦場の端に、負傷兵のための仮設の休息所があった。
布と木材を組み合わせただけの粗末な囲いの中で、数人の兵が横たわっている。
うめき声は抑えられていたが、痛みは隠しきれていない。
その中の一人が、十字架を握りしめていた。
指は震え、血に濡れ、爪の間には土が詰まっている。
それでも、彼は離さなかった。
デカルトは、思わず足を止めた。
兵士は、彼に気づくと、かすかに目を開いた。
焦点は合っていない。
だが、誰かがいることだけは分かっているようだった。
「……神は……見ている……」
掠れた声が、空気を揺らした。
それは確認でも、主張でもない。
自分自身を支えるために、繰り返される言葉だった。
デカルトは、答えなかった。
答えようともしなかった。
――ここで理性が語ることは、
――この言葉を奪うことになる。
彼は、それを本能的に理解していた。
兵士の言葉は、真理かどうかでは測れない。
正しいかどうかでもない。
それは、この瞬間を生き抜くための支点だった。
理性は、支点を分析できる。
なぜ人は極限で信仰にすがるのか。
恐怖と希望の心理的構造。
文化的背景。
教育。
だが、それらの説明はすべて、
いま、この震える手を支えない。
デカルトは、初めて明確に感じた。
信仰には、理性が決して代替できない役割がある。
それは「説明」ではなく、
「耐えるための形」だ。
兵士は、十字架を握ったまま、再び目を閉じた。
言葉は続かなかった。
だが、その沈黙は、恐怖よりも安定して見えた。
デカルトは、その場を離れた。
心の中に、奇妙な感覚が残っている。
――羨望。
その感情に気づいたとき、彼は立ち止まった。
信じ切れること。
疑わずに身を委ねられること。
それは、理性の人間にとって、ほとんど到達不可能な安らぎだ。
だが同時に、別の感情も湧き上がる。
――恐れ。
もし、あの支点が崩れたら。
もし、神が沈黙したら。
もし、信じたものが裏切られたら。
理性は、その可能性を見逃さない。
だからこそ、全面的な信仰に踏み出せない。
デカルトは理解した。
信仰を持つ者は、強い。
だが、その強さは、崩れるとき、理性よりも脆い。
理性は、崩れ続けることに耐える。
信仰は、崩れること自体に耐えられない。
その差が、彼の足元の亀裂を、さらに広げていた。
――私は、どちらにもなれない。
その認識は、絶望ではなかった。
だが、孤独だった。
信じ切る者の隣にも立てず、
冷徹な理性の高みにも戻れない。
その中間に、彼は立たされている。
亀裂の上に。
そして、亀裂は、彼を引き裂くためではなく、
立ち方を選ばせるために、そこにあるのだと、
薄々感じ始めていた。
亀裂の上に立っているという感覚は、次第に明確になっていった。
それは足元が不安定だという物理的な比喩ではない。
どちらにも身を預けられないという倫理的な不安定さだった。
信じ切る者は、迷わない。
少なくとも、迷いを表に出さない。
祈りは彼らを一つに束ね、恐怖を言葉の奥へ押し込める。
それは戦場において、確かな強さとなる。
一方で、理性は迷い続ける。
問いを抱え、選択のたびに根拠を求め、
決断のたびに「別の可能性」を見逃さない。
それは誠実であるがゆえの重さであり、
同時に、行動を遅らせる弱さでもある。
――誠実とは、どちらなのか。
デカルトは、自分に問いかけた。
信じ切れないのに祈ることは、誠実ではない。
だが、信じる者を「理解できない」と距離を取ることも、
また別の不誠実ではないのか。
彼は、戦場の中央に戻ってきていた。
死体が集められ、布がかけられ始めている。
名を知らぬ者たちが、名を失ったまま整列させられる。
そこに、一人の兵が立っていた。
祈ってはいない。
だが、冷静でもない。
彼は、遺体の一つひとつに触れ、
まるで数を確かめるように、静かに指を折っていた。
「……これで……足りるのか……」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
神にでも、上官にでも、理性にでもない。
ただ、現実に向けられた独白だった。
デカルトは、その姿に強く引きつけられた。
あの兵は、信仰にすがっていない。
だが、冷静に分析しているわけでもない。
彼は、ただ引き受けようとしている。
死の数を。
失われた重さを。
そして、自分が生き残ったという事実を。
そこには、祈りも説明もない。
だが、逃げもない。
デカルトは、はっとした。
誠実とは、信仰か理性か、という選択ではない。
自分が立っている場所から、目を逸らさないことではないのか。
信じられないなら、信じられないまま立つ。
理解できないなら、理解できないまま触れる。
祈れないなら、祈れないことを隠さない。
それが、理性の人間に許された唯一の誠実さではないのか。
亀裂は、まだ消えていない。
だが、その形が変わり始めていた。
裂け目は、落とし穴ではない。
選別の境界線でもない。
それは、自分の立ち位置を明確にするための線だった。
デカルトは、祈り場の方を振り返った。
兵士たちは、なお膝を折っている。
その姿を、否定する気持ちはなかった。
同時に、そこへ戻りたいとも思わなかった。
彼は、戦場の中央に立ち、
祈りも説明もない場所で、呼吸を整えた。
ここが、自分の場所だ。
信仰と理性のどちらかを選ぶのではない。
引き裂かれたまま、誠実であることを選ぶ。
その選択が、彼の足元を、わずかに安定させた。
亀裂の上でも、人は立てる。
それを、彼は初めて知った。
夕刻の光が、戦場を斜めに切り分けていた。
昼の鋭さを失った光は、死体の輪郭を和らげ、血の色を鈍く変えていく。
それは慰めではない。
だが、世界が完全に残酷であることを、わずかに緩める時間だった。
デカルトは、その光の中に立っていた。
祈り場にも戻らず、負傷兵の列にも加わらず、
ただ、戦場の中央に留まっている。
信仰と理性のあいだに生じた亀裂は、消えなかった。
埋めようとすれば、どちらかを偽ることになる。
覆い隠せば、いつか別の形で噴き出す。
だから彼は、埋めないことを選んだ。
――裂けたまま、立つ。
それは勇気ではなかった。
覚悟でもなかった。
ただ、それ以外に誠実な立ち方が見つからなかっただけだ。
祈る者たちを否定しない。
だが、祈れない自分を偽らない。
理解しようと努める。
だが、理解できないままのものを、切り捨てない。
理性は、問い続ける。
信仰は、身を委ねる。
そのどちらも、人が生き延びるために必要だ。
だが、同時に持つことはできない瞬間がある。
その瞬間に、人は選ばねばならない。
どちらかの側に立つのではなく、
どの地点から世界を見るのかを。
デカルトは、兵士の遺体のそばに膝をついた。
祈りは捧げなかった。
言葉も発しなかった。
ただ、そこに在った。
死者の重さを、足元の冷えを、
戦が終わっていないという事実を、
そのまま引き受けるように。
その沈黙は、信仰の沈黙ではない。
だが、虚無でもない。
理性が、逃げずに留まるための沈黙だった。
やがて、空に最初の星が現れた。
薄く、弱い光。
だが、確かに夜の訪れを告げている。
デカルトは立ち上がり、空を見上げた。
信仰の星座を読むことはできない。
だが、光が存在すること自体は否定できない。
――信じられない者にも、
――光は等しく届く。
その理解は、慰めではなかった。
だが、彼を支えるには十分だった。
亀裂は、彼の足元に残ったままだ。
だが、もはや恐怖ではない。
それは、彼が立っている地点を示す線。
信仰にも理性にも飲み込まれず、
それでも世界から離れないための、細い境界。
デカルトは、次の進路を見定めた。
戦場を離れるのではない。
戦場を理解したとも言えない。
ただ、ここを通り抜け、
この亀裂を抱えたまま、次へ進む。
問いは、まだ続いている。
だが、問いに潰されることはない。
信仰と理性の亀裂――
それは、彼を引き裂くための裂け目ではなかった。
彼を、人の高さに留めるための裂け目だった。
デカルトは、ゆっくりと歩き出した。
夜へ向かって。
次の影へ向かって。
そして、その歩みは、「阿修羅の涙」へと、静かにつながり始めていた。
つづく…









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